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正法眼蔵 看経 15

益州大隋山の大隋法真禅師は長慶寺の大安禅師の後継者であった。大隋法真禅師のところへある時、一人の老婆に寄進を頼まれた使者がやって来た。使者は老婆に頼まれた浄財を献上した。そして、大隋法真禅師に「大蔵経」を読んで下さいと言う老婆のお願いを申し出た。そこで大隋法真禅師は、坐禅の椅子から下りてその椅子をぐるっと回って使者に向かって言った。「さあ、これで大蔵経を全部読み終わった」と。

使者は戻って、老婆に趙州禅師の言った事を報告した。「和尚さんに経典を読む事をお願いしたが、坐禅をしていた椅子から下りて、椅子の周りをぐるっと一回り歩いたところで、大蔵経を読み終わったと言われました」と。老婆は使者の報告を聞いて「自分は和尚に対して大蔵経全部を読んでほしいとお願いしたはずなのに、どうして半分の大蔵経しか読まなかったのであろうか」と言った。

大隋法真禅師の説話について道元禅師が注釈されます。
大隋禅師が椅子の周りをぐるぐる回ったけれども、この大隋禅師の行動をどう解釈するかという問題については、ただ大隋禅師が椅子の周りをぐるぐると廻っただけだと理解すべきではない。また大隋禅師の周りを坐禅の椅子がぐるぐる廻ったと理解すべきではない。この大隋禅師の行動は、握り拳や眼の玉のような具体的な事物を示したばかりではなく、現実の行動で経典を読むという事がどういうことかという事を示されたわけである。

そこではぐるぐると一回廻ったことによって、円をかいたのであるが、円を自分の体で実際に行動によって書き示したという事に他ならない。しかしながら、そういう大隋禅師の行動に対して、この老婆の見方がはたして正しい見方であったか、まだ十分に正しい見方を具えていなかったかどうか、その辺が問題である。

老婆の「ただ和尚は大蔵経の半分しか読んでいない」という言葉は、たとえこれを握り拳のような具体的な事実から正しく伝承したとしても、老婆はさらにいうべきである。「私は大蔵経を全部読んで下さいとお願いした。ところが和尚は坐禅の椅子の周りを廻っただけであって、和尚はどうもただ気をもんだだけの事でしかない」と。もし間違いにせよ、この程度の事を老婆が口にしたならば、この老婆はさすがに正しくものを見る目が具わっているというふうに言うことも出来たであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私はいつも、行こうか行くまいか、買おうか買うまいか等と言う事で二元相対の中で心が悩まされるわけですね。そういう自分の心の始末というものが坐禅をやって修行を積んでいくと・・・そうすると、スパッスパッと決断出来る様になるのですか。

先生
ええ、そうです。

質問
それはやはり自分が努力しないと、そうならないのでしょうか。

先生
いや、本来そういうものが人間のあり方ですよ。

質問
スパッスパッと。

先生
そう、そう。だから子供はみんなスパッスパッとやりますし、ものを考えたり行動しますよ。大人になってくるといろんな垢がつくから行動が自由でなくなるわけだ。いろんな思惑が出るから、いいかなあ、悪いかなあという事になるわけです。だからもう一度そういう垢を洗い落として、子供のようにサッサッと出来るようにというのが坐禅(仏道修行)だと、そういう解釈で間違いないと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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