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正法眼蔵 看経 14

趙州従諗禅師の説話について道元禅師が注釈されます。

今述べた趙州禅師の話から次のような事が知れる。老婆は「大蔵経」の全部を読んだとか、半分を読んだとか言っているけれども、老婆の言う「半蔵」とは一巻に他ならないのだから、「一蔵」はその倍の二巻にあたり、したがって「一蔵、半蔵」は結局老婆の立場でいう経典三巻に相当する。しかしながら、趙州禅師が「経典を読む事がこれで終わった」と言ったときの事情は、趙州禅師の立場から見て「大蔵経」を全部読み終わった事を意味するのである。

一般的に寺院の住職が人から経典を読む事を頼まれて、おもむろに坐禅の椅子の周りをぐるっと一回廻るという事は、坐禅の椅子を回っている趙州禅師という見方もあるけれども、坐禅の椅子というものが趙州禅師の周りを廻っていると言う見方もある。さらに、趙州禅師は独自の存在であって、坐禅の椅子とは関係なしに、たった一人で趙州禅師が回ったという見方もあるし、また坐禅の椅子は坐禅の椅子で独自の存在であるから、趙州禅師が回ろうと回るまいと厳然として坐禅の椅子としてそこにあったに過ぎないという見方もできる。

しかしながら、さらに一歩進めて言うならば、経典を読むと言う事は趙州禅師のように坐禅の椅子の周りを廻るというだけではない。趙州禅師にしてみれば、ご飯を食べたり、寝たり、坐禅をしたりという日常生活のすべてが経典を読む事である。坐禅の椅子は、本堂の真ん中に置かれているという事が、経典を読む事であり、本堂の柱も、本堂の畳も、本堂の屋根もその他一切のものが厳然とした事実であって、それらがすべて経典を読むことに他ならない。

一切の経典を読むと言う事は、坐禅の椅子の周りを廻るというだけではないし、また坐禅の椅子が趙州禅師の周りを廻るというだけでもない。この事はこの世の中における一切の出来事、一切の行動というものが、すべて経典を読むと言う意味を持っている。仏教が説くところの教えを学ぶと言う事につながっている。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
たびたびお伺いするんですけれども、坐禅をしておっての直観的なものを尊重すると言う事ですね。 先生のご体験としてはどう言う事がございますか。

先生
我々は年がら年中決断で動いています。 だけど、その決断というのは頭で考えたって間に合わない。大抵は物事を頭で考えればいい智慧が出てくると思っているけれども、いくら考えても、考えというのは堂々巡りするだけです。 どうするかというのは、やっぱりその時の体の状態、心の状態が決めるわけです。

質問
出家と在家、これはお釈迦様の時代からハッキリ人間をそう区別されたのですか。

先生
ええ、これはインド以来の伝統であり習慣です。だからインドの人は出家してしまうと、お布施をもらって悠々と勉強しておるという身分になったわけです。今日でも東南アジアではそういう習慣がある。 タイ、ミャンマーの国の僧侶はお布施をもらって、働かないで仏道修行しているという事がいまだに続いているわけです。 ただ、生産力が増加してくると、仏道修行の出来る人の範囲が広がるという事は言えますね。
   
たとえば、今日の時代で言えば、とにかく朝から晩まで働きづめに働らかなくても生活は成り立つという事で、多少は仏道修行をやる時間ができた。生産力が低い時代は、坐禅をのんきにやっていられるのは専門の坊さんだけという 時代が長くあった。 今日では専門の坊さんでなくても幸いにして、本人の心がけ次第では坐禅をやる時間を持てる時代にやっとなってきたわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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