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正法眼蔵 看経 13

趙州従諗禅師の話に入る前に西嶋先生が解説されます。

今日から入っていく部分は、お経を読むという事の意味を今までとはまた別の立場から説明するくだりになるわけであります。別の立場から説明するというのはどういうことかと言いますと、仏教とは人間の行動する世界の問題を取り上げた考え方という事が言えるわけであります。そのことを具体的に言いますと仏道修行を積んだ僧侶が足を運ぶ、ご飯を食べる、手洗いに行くというふうな日常行動そのものが、お経を読むのと同じ意味があるという考え方が仏教にはある。

普通お経を読むということは、お経に書いてある文字を次から次へと目でたどっていって、何が書いてあるか、どういう意味かという事を読み取るのがお経を読むことの意味だと考えられておりますが、仏教では経典というものは我々の日常生活そのものだ。したがって我々が息を吐いたり吸ったりしておる日常生活の行動そのものが経典という考え方でありますから、寺院の住職のところへ誰かが訪ねて来て「一つお経を読んでください」と頼んだ場合に、住職はお経を声をあげて文字をたどって読むことの代わりに、坐禅堂にある椅子の周りを三回ぐるぐると廻ってお経を読んだことに代えるという事が昔から行われておる。

なぜ住職が歩くことがお経を読む事と同じかという疑問が出るわけでありますが、住職の自信というものから考えますと、自分の一挙一投足は仏道そのものである、だから椅子の周りを三回ぐるぐる回ることが、まさに仏教の経典の一切を読む事と同じだという自信がある。したがって今日の話のところが出てくるわけであります。

本文に入ります。
趙州観音院の趙州従諗禅師のところへある時、一人の老婆に寄進を頼まれた使者がやって来た。使者は老婆に頼まれた浄財を献上した。そして、趙州従諗禅師に「大蔵経」を読んで下さいと言う老婆のお願いを申し出た。そこで趙州従諗禅師は、坐禅の椅子から下りてその椅子をぐるっと回って、使者に向かって言った。「さあ、これで大蔵経を全部読み終わった」と。

使者は戻って、老婆に趙州禅師の言った事を報告した。「和尚さんに経典を読む事をお願いしたが、坐禅をしていた椅子から下りて、椅子の周りをぐるっと一回り歩いたところで、大蔵経を読み終わったと言われました」と。老婆は使者の報告を聞いて「自分は和尚に対して大蔵経全部を読んでほしいとお願いしたはずなのに、どうして半分の大蔵経しか読まなかったのであろうか」と言った。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
宇宙の真理の下に仏教があり、イスラム教があり、キリスト教があり・・・。そして、仏教を我々は信ずると。これは理屈も何もない訳ですね。信仰ですから。そういう風に考えてはどういうもんでしょうか。

先生
その点では、過去において沢山の宗教があったと言う事が歴史的には言える訳ですね。沢山の宗教とはたとえば、今日でも南太平洋の島々の民族にはそれなりの宗教がある。大きな木、山、岩等を崇拝する宗教もある。そうすると我々が過去に持っていた宗教はほとんど無数にあると言える。そういう宗教が一つの場所でお互いに出会うと、どっちの宗教が優れているかと言う争いが行われて、優れた方が勝ち残るということが歴史的にあると見ていいと思います。人類の歴史には宗教は沢山あったが、優れた宗教が勝ち残ってきて、今日世界で優れた宗教として残っている宗教はいくつもない。たとえば、キリスト教、ユダヤ教、仏教、ヒンズ-教等である。そしてこれから、さらに絞られていく可能性があります。

質問
その場合、先生のおっしゃる優れた宗教とはどう言うものですか。

先生
仏教の立場から見ますと、特別の教えのない教えというのが最高の教えであると。これは非常に皮肉なようでありますが仏教が何を説いているかと言うと、「ありのままを見ろ」と言う事を言っておられます。ありのままをよく見ると言う事は、おかしな解釈でひねくり廻しこの世の中を理解するなと言う事を言っておられる。他の宗教には、色々と世の中はこう理解すべきである、世の中はこういう出来方である、こういう原理を信じなければならないと色々ひねくった考え方がある。

ところが、仏教は「ありのままを素直に受け入れろ、ありのままを素直に認めろ」と言う事を説かれた訳です。だから我々が坐禅をしているのは、様々の迷いから脱け出すと言う事。いろんな迷いを身に付けるのではなくて、逆に今まで身に付いている様々の考え方を全部洗い落とすと言うのが、仏道修行であり坐禅の狙いと言う事にもなるわけです。だからそういう点では、様々な優れた宗教が今日残っているわけですが、さらに宗教が出合ってそのどちらを取った方がいいかという問題になって、最後に残るのは仏教ではなかろうかと言うのが私の見方です。

それはなぜかと言うと、仏教は宇宙そのものを説いているわけです。宇宙の他に何か余分なものを頭において、それをプラスするという考え方がない。そういう余分なものを全部洗い落としたところに、真実があると言う考え方が仏教の主張です。そうすると、一番単純な思想、あるいはすべてを包み込んだ思想と言う事にならざるをえない。そういう性格が仏教にはあると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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