トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 看経 12

般若多羅尊者と国王との問答について道元禅師の注釈は続きます。

しかしながらここで考えている境地というものは、煩悩があるとか、煩悩がないとかと言う理性的な智慧の世界で考えられた境地のものではない。それは、汚れているとか汚れていないとかという形での現実世界の中の出来事ではない。それは、汚れと言うものを超越した絶対の現実世界におけるあり方である。したがってこの様な出息、入息の境地(現実の行動の世界の出来事)というものは理性によって考えられた範囲のものではない。推量された範囲のものではない。理性を乗り越えた心の働きによる考えと言うものでもない。理性を乗り越えた、心の働きによって到達しうるという範囲のものでもない。

その点では行為の世界、現実の世界と言うものは、過去における仏教界の沢山の諸先輩が持っておられた、修行や体験であり、皮や肉であり、(骨や髄であり、眼の玉であり、拳であり、頭であり、鼻の孔であり、杖であり、払子(仏経の儀式に使う道具)等、現実の物であり、しかもそういう個々の物を乗り越えたところの現在の瞬間である。それは一言にして言えば、坐禅の修行の結果、自分自身の行動というものが現在の瞬間をさえ超越してしまう事である。

※西嶋先生解説
――道元禅師の思想、したがって仏教の思想というものは、理性とか感覚というものの世界を乗り越えて、行動の世界、日常生活の世界が仏道であると言う主張が非常に強く出ていると見て間違いないわけであります。ただこの立場というのは、現代思想から見るとなかなか理解しにくい。現代思想というのは、大体西洋思想が中心になっているので、頭で考えられる世界。あるいは感覚で受け取られる世界というものに範囲がどうしても限定されて来る。

だからその二つの世界を乗り越えた世界が現実の世界、本当の世界だと言う思想は、今日の社会情勢からすると理解しやすいようでなかなか理解しにくい。今日、仏教と言う思想がなかなか一般の人々に理解できない事情というのは、この辺にあると見て間違いないと思います。ただこの理屈ではない、感覚ではない、現実の世界、ご飯を食べている世界、着物を着ている世界、風呂に入っている世界、そういう日常行動の世界というものが、本当の我々の生活なんだと言う事がはっきり身にしみてわかってくると、仏教思想というものは一体何であるかという事がわかってくることになる。
  
そういう点では、今日、仏教思想を理解するためには、「正法眼蔵」の主張が非常に貴重だということが言えると思います――




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「瞬間を飛び越える」という事は、もういきなり仏になってしまうという事なんですか。

先生
というよりも、現在の瞬間に徹するという事です。現在の瞬間に生きるという事、日常生活に生きるという事。

質問
それが超越したことになるんでございますか。

先生
そういうことです。つまり現在の瞬間の中にわが身を投げ込むという事ですね。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


     
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-