トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 看経 11

我々の住んでいる宇宙を「蘊界」と言う。その意味は「五蘊」五つの集合体の事である。五つの集合体とは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つを言う。

※西嶋先生解説
――色蘊(物質的なものの集まり) 受蘊(その物質的な環境を感覚的に受け入れる働き)
想蘊(その感覚的に受け入れたものを頭の中であれこれと考える働き) 行蘊(その考えに従って自分の体を動かして様々の行動をする働き) 識蘊(その行動の結果、自分の心や頭の中に形成された意識のあり方)――

この五種類の集合体の中にもわが身を置かないという事は、どういうことかと言うと、我々の住んでいる世界は頭の中で考えて、色蘊だ、受蘊だ、想蘊だ、行蘊だ、識蘊というふうに分析的に捉えられた世界ではない。それは現在の瞬間であり、一所懸命生きている現在の瞬間以外にない。五種類の考え方を使って解釈する世界ではない。

※西嶋先生解説

――世界というものを考える場合には、解釈の対象として、「さてどういうものか」という事で、いろんな言葉、いろんな文字を持ってきて、こうではない、ああではないと説明したがるわけだけれども、我々が生きている世界というのは、現実の世界、瞬間瞬間に一刻もとどまることなしに、一所懸命生きていく世界、一所懸命働いていく世界に他ならない。――

この一番大切なところを取り上げてこの様な形で説いている経典というものは、つまり人間の行動を通して説いている経典というものは、一つ二つの経典と言うわずかなものではない。常に、百巻、千巻、万巻、億巻という無数の経典を、行動を通して日々説いているのである。

ここで、百巻、千巻、万巻、億巻というふうに経典の数を挙げておられるが、これはとりあえず多いという事の一例を示したものではあるけれども、多いと言う数量だけの問題ではない。それは、たった一つの息を吐くという行動の中にその状態が、宇宙の中に独立独歩であるという事を言っているのであり、その呼吸の数はたった一つであるけれども、それが百千万億巻の経典の内容にも相当するということを言っているのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
不髄は渾髄なり――独立独歩の生活をする(周囲に引きずり回されない、周囲に拘束されない)と言う事は、徹底して周囲に従っていく事である――という先生の訳文なんですけど、よくわからないんですけれども・・・。

先生
その点は、日常生活、我々の生き方というものを考えていけば理解が早いと思います。たとえば独立独歩と言いますと、はたの人の言うことは聞かない、他の人が「こうやろう」と言って気持ちがあっているときに「いや、俺はいやだ!」という風な生き方をするのが、本当の意味での独立独歩であると考えられがちであるけれども、よく考えてみるとそういう他人に逆らう生き方というものが必ずしも独立独歩の生き方ではない。むしろ人と歩調を合わせながら、社会的には極めて順応しながら、しかも自分の境地を失わないという事が不髄であって、しかも渾髄であるという事の意味だと、そういう事です。

これは日常生活の出来事をいろいろと考えてみると、俗な言葉で言えば一言居士というのがある。誰か人が何か言うと「いや、そうじゃない、それは間違いだ」というようなことで、どんなことにも何か意見を述べなければ気のすまない人がおる。で、そういう人が本当の意味で独立独歩の人かというと、実情はどうもそうではない。むしろ人の言うことをおとなしく聞いている人の方が芯の強いところがある。

そういう点では、外見がどうかという事と中身がどうかという事は、かなり事情が違っているわけで、おとなしい人がかえって芯が強いという面があるし、派手に論議する人がわりあい弱い面をもっているというふうなこともある。そういう事と、この「不髄は渾髄なり」という事と関連しておるとみていいと思います。

だからそういう点では、道元禅師の世の中に対する見方、あるいは人間に対する見方というのは実に徹底している。それは仏道の見方でもある。釈尊もそういう見方をされたし、釈尊の教えを勉強された道元禅師もそういう見方をされた。だから刃物を振り回して「矢でも鉄砲でも持って来い!」と言って頑張っている人が本当に強いかどうかという問題でもある。そういう乱暴者が来た時に逃げ回っている方が強いという場合がいくらでもある。そういう事でもあるわけです。


いつも訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

FC2カウンタ-