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正法眼蔵 看経 10

般若多羅尊者と国王との問答について道元禅師の注釈は続きます。

不髄は渾髄なり(周囲に引きずり回されない、周囲に拘束されないと言う事は徹底して周囲に従っていく事である)。すんなりと日常生活をしようと思っても、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりと言う事が実際である。吐く息と言えども、見方によっては物の一部に他ならないけれども、しかもそういう物質的な基礎を踏まえながら、自由自在の生活をしていくというのが仏道修行のあり方であり、また人間の誰でもがそういう状態である。

仏道修行者と言えども、毎日の様に息を吐いたり吸ったりして日常生活を送っている。しかし、その事が一体どう言うものか認識していないと言う事が実体であるけれども、般若多羅尊者のこの言葉によって、現にいま初めて息を吐く事とは何か、息を吸う事とは何かと言う事がやっとわかる時期に差しかかって来たのであるから、この宇宙の中において独立独歩に生きるという事の実体、あるいは周囲の環境に悩まされないで生きていく実体とは何かと言う事を聞く事が出来た。

周囲の環境の実体がわかるという事が、人間の生き方の実体とはどういうものかという事がわかって来る時期であるし、人間の生き方が何であるかがわかるという事は周囲の環境がわかることに他ならない。しかしその時間というものは、すでに勉強してわかったと言うものではない。これから勉強してわかると言うものでもない。我々が与えられている現在の瞬間のうちにのみ、客観世界とは何か、吸う息とはなにか、吐く息とは何かと言う現実そのものの実体があるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
不髄は渾髄だという事は、大変立派なお言葉でございますね。たとえばもうじき始まるけど年賀状なんか、あれは一つの流行みたいで、考えようによっては苦になりますね。お金もかかるし、時間もかかるし。それを、この不髄は渾髄だという立場から言えば、やっぱり三百でも四百でも出さなきやならないもんでございましょうか。

先生
いや、そう言う事ではないと思います。出してもよし、出さなくてもよしと言う事だと思います。その事に関して、自分がどっちにするかと言うのは自分自身の問題です。だから、周りがやっているから、否応なしに無理に右へ習えすると言う事を言っておられる訳ではない。自分がやめようと思ってやめれば、それでもいい。また、やっぱり習慣だから出そうと思えば、それでいい。

質問
ですから年賀状をやめたいと思ってやめれば、結局は他の人からもらっても、知らん顔をしている事になるでしょう。頑固者みたいになりますけれど、そんな根拠に支配されてはいけない・・・・・
 
先生
そう、そう、そういうことです。
ですから出さなくて、人から仮に文句を言われても「ああ、どうもすみません」とニコニコ笑っているという生き方が出来れば、それでいいと言う事ですね。

質問   
                       
その方がつよいわけですね。

先生
そう、そう。ところが普通はそういう生き方をしないで、世間の付き合いだから、どうしても年賀状をさなきゃならん、と思って頑張る人もいる。また「俺はそんなくだらん事はもう全然やらんのだ」と言って得意になっている人もいる。だけれども、外形がどう出るかと言う様な事は大した問題ではない。ただ、出す出さんに関わらずその受け取り方、出さない時の気持ちの持ち方、出した時の気持ちの持ち方、という事にならざるを得ないと思いますね。だからその点では、自分自身のやる事に自信を持ちなさいと言う事でもある。
般若多羅尊者の態度がどういうことかというと、ご自分の生き方に絶対の自信があるわけですよ。他の僧侶の人は一所懸命お経やなんかを唱えているけど、自分はお経を唱える必要はない、自分の吐く息、吸う息そのものが「法」なんだから、経典を無数に説いていることなんだからと。そういう境地に立てば、自分のやることについて絶対の自信があるという事ですよ。そうすると年賀状を出そうと出すまいと、「おれは出さん」と言って出さないのもいいし、「やっぱり出す」と言って、これだけの範囲は出すという事で出してもいいし、自分自身がどう生きるか、どう動くかという事に関する問題という事になるわけですよね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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