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正法眼蔵 看経 6

大鑑慧能禅師の教団に、法華経を唱えて一所懸命に仏道の修行をしていた法達と言う僧侶がやって来た。

この法達と言う僧侶は、すでに法華経を三千回唱えたと自分で話していた。そのとき、大鑑慧能禅師は法達に対して「法華経」を読む事の意味を伝える意図から偈(詩)をつくって説いて言われた。「心が様々の考え方に引きずり回されて迷っている場合には、周囲の環境によって自分自身が引きずり回される。心が落ち着いて環境がはっきり見えてくると、自分自身で周囲の素晴らしい環境を引きずり回す事が出来る。

たとへ法華経を読む事が長い期間経ったとしても、自分自身を解明していないならば法華経が迷いの種となる。心の中の思いがなくなった場合には、正しい状態が出てくるという事も言えるし、心の中の思いが様々と湧き出てきて何がなんだかよくわからない場合には、誤りと言う事もいえる。

しかしながら、仏道の立場と言うのは、心の中の思いがなくなった場合がよくて、心の中の思いが様々と湧く事が問題だと言う単純な色分けではなしに、この二つの状態が問題にならなくなった世界に自分をおくならば、一仏乗の象徴である白牛車に永久に乗っていく事であろう。

※西嶋先生解説    
ここで白牛車というのは「法華経」の譬え話の中に出てくる言葉であります。それはどういう事かというと、火宅の譬えというのがあって、我々の人生というものは、ちょうど赤ん坊や子供が古くなった今にも崩れそうな家の中に遊んでいるようなものだ。ましていつの間にか火がおきて、どんどん燃えてきておる、だからその中で遊んでいる子供は非常な危険に陥っている。ところが子供自身はその危険に気づかないで遊んでいる。はたで見ていた親は何とかしてその子供たちを火事になっている家から救い出したい。ところが子供はなかなか出てこない。

そこで羊の引いた車を持ってきて、早くこの車に乗って出てきなさいという事で誘ったり、あるいは鹿の引いた車を持ってきて、子供を乗せてそこから出そうとしたり、あるいは非常に大きな牛の引いた車を持ってきて、子供を連れだそうとしたりする。ただ一番最後に白い牛の車に乗せて子供たちを燃え盛る火の中から救い出すという話がある。

この羊車・鹿車・大牛車・白牛車というのは、人間の仏道修行に関する種類を示しているわけで、羊車というのは声聞(理屈を中心に、仏道修行をする立場)、鹿車というのは縁覚(感覚的な環境を通して仏道修行をする立場)、大牛車というのは菩薩(日常の社会生活を通して仏道修行をする立場)、それから白牛車というのは坐禅(坐禅を通して仏道修行をする立場)こういうふうに理解していいわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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