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正法眼蔵 看経 7

大鑑慧能禅師の偈(詩)について道元禅師が注釈されます。

この大鑑慧能禅師の偈の教えから知る事が出来ることは、心が迷った場合には周囲の環境によって引きずり回され、心が落ち着いている時には周囲の環境を引きずり回す事が出来る。また心が落ち着かない時には、「法華経」の意味に引きずり回され、心が落ち着いた時には、「法華経」の意味を読み取る事が出来る。ところが、この迷いとか悟りとかと言う差別の世界を乗り越えるならば、この素晴らしい宇宙がただ瞬間瞬間に動いていると言う現実に出会うのであって、ちょうどそれは、宇宙が宇宙を動かしていると言う状況に他ならない。

この法達という僧侶は、大鑑慧能禅師の偈を聞いて小躍りして喜んで、自分自身も偈をつくって大鑑慧能禅師の教えを賛めて言うには「自分はいままで三千回の多きにわたって法華経を唱えてきた。しかし、大鑑慧能禅師の「法華経」に関する教えを聞いた瞬間に、今までの三千回読んでいた「法華経」の経験はすっかりどこかに行ってしまい、どうでもよくなってしまった。当然の事であるが、釈尊は仏道を理屈で説くために出られたのではない。釈尊は仏道が感覚的な世界のモノだということを説かれたのでもない。
     
釈尊は坐禅によって一人も残らず、迷いを離れ執着を離れる事を説くためにこの世に出られた。この釈尊の真意がわかっていないうちは、様々な境涯にわたって狂気じみた愚行を繰り返す事をどうして止める事が出来よう。「法華経」にも説かれている様に、羊車・鹿車・牛車と言う修行の方法があるけれども、最初も、中ごろも、終わりも全行を絶えず行うという状況がないというわけではないけれども、誰がこの現実の娑婆世界にありながら、坐禅という手段によって自分自身を知る事により、誰もがこの宇宙の王であると言う事実を知っておろうか。
     
法達はこのような形で、大鑑慧能禅師の偈に答えて賞賛の偈を奉った。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
せっかく高校に入ったのに、退学する生徒が多いいのは・・・。

先生
今の教育制度は、少しまずいのではないかと思います。各人が「オギャ-」と生まれてきたという事、人間としてこの世に出てきたという事にはどういう人であれ非常に高い価値があるわけです。だから、それをどの様に発揮していくかと言う事で手助けするのが教育だと思う。そうすると、質の良いのだけ選んで、他はもう勝手にしてくれと言う事では、やや具合が悪いのではないかと言う気はしますね。

質問
「人間尊重」って口では言いましてもね、それこそ実行できていませんね。

先生
そう、そう。だから「人間尊重」なんて言っても、それが実行されていないのはなぜかと言えば名利です。名誉と金は社会を支配する大原則だからです。大抵の人が名誉がほしい金がほしいで、一所懸命働いているわけだからね。だからそうすると、学校の評判を良くしたいとか、校長先生に良く思われて早く出世したいとか一円でも給料が沢山もらえたほうがいいとか、いろんな努力の仕方があるわけです。

そういう努力と言うものが表面に出てくると、本当に大事なものはどこかに行ってしまうわけです。そうすると、グレた子を助けるよりは「あんなの早くいなくなってくれればいい」とか「いなくなれば学校の評判が落ちないですむ」と言う考え方にいってしまう場合が多いんですね。それはまあ学校だけの事じゃないですよね。どこにでもそういう問題はあると思いますけどね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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