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正法眼蔵 看教 3

経典を読むことは、釈尊の真実を究めるための一つの重要な方法である。

そのやり方については、経典の内容を頭に思い浮かべる念経もあるし、心静かに経典を読む看経もあるし、声を出して大声で経典を読み上げる誦経もあるし、経典を書き写す書経もあるし、経典をいただく、受けとるという受経もあるし、その経典を持ち続けていくという持経もある。これらの経典に関する様々な行動はいずれも、仏教界で真実を得られた方々の修行であり体験である。

しかしながら、釈尊の説かれた教えを書きつけたところの経典に出会うと言う事は、決して容易な事ではない。この我々の住んでいる世界には殆ど無数と言ってもいいくらい様々の国があるけれども、その中で経典の題目、名前を聞く事さえできない様な場合がある。また真実を得られた方々の中にも、その経典の名前さえ聞く事が出来ないと言う場合もある。また、仏道の真実の真っ只中にありながら、その経典の名前さえ聞く事が出来ないと言う場合もある。それほど経典に出会う事は難しい。

仏道修行者が仏道の真実に触れた時でなければ、仏教の経典も見たり、聞いたり、読んだり、理解する事は出来ないし、仏道の真実を得た人々が学び始める時に、やっと経典がどういうものであるかという事がわかってくるのである。経典に本当に目が開かれてくるのは、その人が真実がわかってからの事である。その真実がわかってきたときには、耳においても、眼においても・舌においても・鼻においても・皮膚においても、心においても、経典の名前を聞き、経典を保持し、それを受け取り、またその経典を説くという事が初めて現実に行われるのである。また行った先々で、人の話を聞く先々で、人に話をする先々で経典の名前を聞き、経典を保持し、それを受け取り、またその経典を説くという事が初めて現実に行われるのである。



               ―西嶋先生の話―
 
釈尊の四諦の教えは、仏教の大切な考え方として何回も説かれています。「諦」は訓で読むと「あきらめる」です。「あきらめる」は断念すると言う意味ではなくて、明らかにすると言う 意味です。仏教ではこの世の中を考えていく場合に、四段階の考え方でいくべきだという主張があります。それが四諦論の意味です。

※苦諦の考え方
人間が誰でも最初に持つ考え方で、ああしたい、こうしたい、ああしなければならない、その反対に、ああしたくない、こうしたくないと言う理想や願望を基準とした考え方。その結果、頭で考えた理想を求め一所懸命やると現実にぶつかって傷つく。

※集諦の考え方
この世の中は物質的な物の集まりで、原子とか分子とかと言う細かい微粒子の集まりで出来上がっていると言う考え方。 だから原因結果の関係の集積に縛られている。人間が良心的に一所懸命に努力すると言う事よりも、現実がどうなっているかと言う現実そのものを見るという点では優れているけれども、人間の努力と言うものにあまり信頼を置かない。その結果、どうせ駄目だからと言ってあきらめてしまって生きている張り合いがなくなってしまう。

※滅諦の考え方
釈尊は、苦諦、集諦の考え方では人間は幸福を感じ得ないと言う事に気付かれた。理想を追求しながら、しかも現実と調和して行く生き方が何処かにないかと修行し苦心された。その結果、釈尊が説かれたのは、ものを考えると言う事、あるいは物質的に色々なものを受け入れると言う事よりも、人間が生きがいを感じ人生に意味をもたらすものは、何をするかと言う事、どういう行動をするかと言う事が大切だということに 気付かれた。

※道諦の考え方
行動は、それがまずければ自分自身が被害をうける。また人に被害を与えると言う事もある。実際に行動するという事は簡単なようで難しい。実際に日常生活で積極的に行動しながら、しかも自分が傷つかないで他人にも傷を与えないと言う生き方はどうしたらいいのかと言う問題になる。釈尊が説かれた事は、人間が本来の状態に立ち返ったところでやる行動は自分自身をも傷つけないし、人にも迷惑を与えないと言う事。それはなぜかというと、我々は法と言う現実の世界の中に生きている。

だからその法の世界を支配している原則を自分自身が身につけて、その原則に従って生きるならば、自分も満足するし人にも迷惑をかけないで、自分にも他人にも幸福を与える事が出来る。釈尊は人間が幸福になるためには自分の本来の状態に戻らなければならないと言う事を悟られて、その自分の本来の状態に戻る修行法として坐禅と言う事を考えられた。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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