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正法眼蔵 看経 2

「看経」の巻、本文に入ります。

釈尊の説かれた、最高にして均衡のとれた正しい真実を実践し体験するという事は、ある場合には優れた師匠を通してこれを学び、ある場合には経典を勉強してこれを学ぶ。自分が教えを受けるべき高徳の僧侶とはどういう人かというと、自分の本質というものがすっかり外側に出てきた仏教界の諸先輩を言うのである。経典というのは、読む人自身の事がすっかり書いてあるものが経典である。

※西嶋先生解説
――仏教経典の中に何が書いてあるかというと、我々の事が書いてある。人間がどういうものであって、どういう生き方をしたらいいかという事が書いてあるのが経典の中身。普通はそうは考えない。経典には仏様の事が書いてあると考えているけれども、経典の中に書いてあるのは、人間の悩み、人間の悲しみ、人間の努力、人間の幸福、そういったものが経典の中にびっしりと書いてある。――

そして自分自身とは何かと考えてみると、真実を得た人そのものに他ならないし、自分自身とは何かと考えてみると、仏教界において昔から伝えられて来た膨大な経典そのものに他ならない。そのような関係であるから、現に自分自身は師匠について一所懸命仏道を学び、経典を読んで仏道を学んでいるのである。ここにいう自分自身とは、この私とあなたと言うふうな一人一人の個人的な思惑を中心とした自己ではない。それは、我々の現実の生き生きとした見方であり、またその行動も生き生きしている状態を言うのである。



               ―西嶋先生の話―

人間、不幸の時に決して悲観すべきではない。それと同時に、調子のいい時も有頂天にならないと言う事が大事であります。これが人間の生き方として非常に大切だと言う気がする訳であります。不幸の時に気持ちを滅入らせてクヨクヨしない事、これが一人前の人間の条件だと思います。また調子のいい時、有頂天になって、浮かれて、足を踏み外す事のないと言う事、これも一人前の人間としての条件ではなかろうかと思うわけです。
 
ところが世間では一般には、調子が悪いともう途轍もなく悲観してしまう。それと同時に、ちょっと調子がいいと実に有頂天になって喜ぶ。えてして、調子が悪くてもそのとき悲観せずに一所懸命やるといい結果を生むし、調子の悪い時にガッカリしてしまうと碌な事がないと言う問題がある訳であります。これは単に仏教で説かれるだけではなく中国の古い思想にもあります。それは大抵の人が知っている有名な「人間万事塞翁が馬」と言う話がある。

昔、中国の都市があってそこの城壁のそばに一人の老人が住んでいた。その老人には一人の息子がいた。そして1頭の馬を飼っていた。ところが、その馬がある日、城壁の外に逃げ出してしまった。そこで近所の人が、「せっかく1頭の立派な馬がいたのに、逃げてしまってお気の毒ですね」と老人に言った。ところが老人は「いやぁ、まあそう大して悲観する事もないよ」と言っていた。ある日、その城外に逃げて行った馬が沢山の野生の馬を引き連れて老人の所へ戻って来た。そこで、近所の人が「いや、よかったですね」と老人に言った。ところが老人は「いや、大したことはないよ」と言って平然としていた。

ある日、一人息子がその沢山の馬のうちの1頭に乗っている時、馬から落ちて足を怪我してしまった。一人息子が怪我をしてしまったので、近所の人がまた「お気の毒ですね」と言った。ところが老人は「いや、大したことはないよ」と言って平然としていた。それからしばらくして戦争が始まり、他の若者はどんどん兵隊に取られ戦死していった。しかし、老人の一人息子は怪我をしているので兵隊に取られなかった。そこで近所の人がまた「よかったですね」と言った。
  
そんな事で単に仏教思想だけではなしに、中国の古い思想にも世間一般で不幸だ不幸だと思われている状態にぶつかった時に、決して悲観する必要はないと言っている。その不幸だと思われた状況の時に、それを跳ね返すだけの力があってこそ、初めて人間なのである。そういう時に、跳ね返すだけの力がなければ人間の部類に入らないと見ていい。それから、調子のいい時にワ-ワ-浮かれ自分の調子が維持できないと言う事もやっぱり人間としては多少かける面があると、そう言う事が言えるのではなかろうかと思うわけです。


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568:人間万事塞翁が馬 by せっせせっせ on 2016/08/04 at 22:22:59

「人間、不幸の時に決して悲観すべきでない。それと同時に、調子のいい時も有頂天にならないと言うことが大事であります。不幸の時に気持ちを滅入らせてクヨクヨしない事、また調子のいい時、有頂天になって、浮かれて、足を踏み外す事のないないと言う事、これが一人前の人間の条件です。」
「不幸の時に、それを跳ね返すだけの力があってこそ、初めて人間なのである。」
西嶋先生の話、人間としての血が奮い立ちます。
毎回楽しみにしています。

569:Re: 人間万事塞翁が馬 by 幽村芳春 on 2016/08/05 at 17:23:37

せっせせっせさん、いつもコメントありがとうございます。

坐禅をして「正法眼蔵」を読むと西嶋先生の話がよく分かりますよね。「正法眼蔵」はまだまだ続きますので一緒に勉強していきましょう。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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