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正法眼蔵 看経 1

「看経」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

今日、看経というと大きな声をあげて「観自在菩薩・・・・」と大声に唱えるのが看経と言われていますが、道元禅師の「看経」の巻のお考えというものは、必ずしもそういうふうに声をあげて経典を読むという事ではなしに、むしろ静かに読んで経典の意味を理解し考えるという事が「看経」の意味になるとみてよいかと思います。この経典を読むという事については、元来、仏道というのは抽象的な論議の問題ではないという立場からしますと、経典を読むことを比較的軽視する、軽く見るという考え方もあるわけであります。

その一つの典型的な例は、「不立文字教外別伝」という思想があるわけであります。「不立文字」というのは、文字を立てない、つまり言葉を使って論議をしない、あるいは本を読んで仏道を理解するという事をやらない。「教外別伝」というのは、教えというのは抽象的な理論・教えという意味があるわけで、そういう抽象的な理論・教えの他に、釈尊以来、別に伝えるものがあるという思想が「不立文字教外別伝」という思想であります。この思想は臨済系の坐禅をやる人々の間では、非常にやかましく言う。そういう点では「仏道とは理屈ではない悟りだ!」という事をしきりに言う。その「仏道とは理屈ではない悟りだ!」という主張を、この、「不立文字教外別伝」という言葉で表現しているわけであります。

ところが道元禅師はこの「不立文字教外別伝」という考え方に対して、必ずしも賛成しておられない。だから「正法眼蔵」の別の巻で、この「不立文字教外別伝」という思想を否定しておられるところがある。そういうところから見ると、道元禅師は仏道が単なる理屈ではないという事、これは非常に強く主張されたわけでありますけれども、それと同時に経典を読むこと、仏道を理論的に勉強することも決して否定しておられなかった。

その点では看経というものにも意味を認めておられたし、またそのことが単に紙に書かれた字を読むという事だけでなしに、道元禅師のお立場からすれば、我々を取り巻いている宇宙全体が経典そのものなのであるから、我々の世界が示してくれておる教えを読み取るという事、これもまた経典を読むことであり看経であると、そういう考え方に立って、この「看経」の巻を説いておられるという事が言えようかと思うわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私が思いますに、もし釈尊が現代に生きておられたら、あれだけエネルギッシュな方ですから、航空機を使い平和を説いて諸外国を回られたのではないかとないかと思うんですが・・・。

先生
私はその点については、ちょっと疑問を持つんですよ。それはどう言う事かと言うと、平和を唱える事によって平和は来ないということ。これは大事なことですよ。平和、平和と大声で怒鳴る事で、平和は決してもたらされない。

質問
じゃ、何を言えばいいんですか

先生
個人生活ですよ。各人の生活が平和であって、その総合の上にのみ平和は生まれるんですよ。だから、平和と言う思想が平和をつくらないと言う事。平和であれと言う主張が平和な状態を生まないという事、これは言えるんですよ。これは日本の国の動きと言うものを、過去にさかのぼって考えてみてもよくわかる。大正から昭和の初めにかけては「平和、平和」とやかましいほど言ったんですよ。それが戦争に行っちゃっているんです。昭和20年になって以降は、また「平和、平和」と言ったわけだけど、そういう風潮がもう一度戦争に行かないとは限りませんよ。
   
口で平和と唱えると言う事が決して平和をもたらさないということ、そう言うことは私はあると思います。まあ、そういう事を言うと多少非難がましいような事に聞こえますけれども、決してそういう意味ではない。だから、平和を唱える事は大いに結構だと思いますが、私にはよくわからないと言う面があります。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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