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正法眼蔵 古鏡 51

南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。。

瓦であれ、鏡であれ、一所懸命磨いている時の状態は他の時とは様子が違う。坐禅をやっている時には、はたから想像していた状況と全く状況が違う。しかしながら、ここで南嶽禅師が言っている事は、真実を得られた南嶽禅師の事であるから、まさに真実そのものの言葉であろうし、結局のところは瓦を磨いて鏡を作るという事に他ならないのであろう。したがって、今日の人といえども自分の現在の生身の体を取り上げて、一所懸命坐禅をして磨いてみるがよい。おそらく鏡になる事は間違いないであろう。生身の体を坐禅によって仏にすることが出来ないならば、およそ人間というものは決して仏になる事はあり得ない。

瓦は泥を固めて焼いてつくったものであるから、それほど価値ある物ではない、鏡に比べると価値がないものだと考えるならば、人間も生身の体であり、肉があり、骨があり、ものを食べなければ腹がすくものであるから、瓦が泥の塊であるのと同じように、人間も大した価値がないという事にならざるを得ないであろう。人間に心と言うものが現にあるとするならば、同じ様に瓦にも心と言うものがあるはずである。

鏡があって、それに瓦が来れば、その瓦の影が映るのと同じように、人間は生身の体であって、坐禅をする事がなければ、仏になる事がないと言う事を誰が知っておろうか。そういう事実がある事は知る人が非常に少ないけれども、我々は生身の体であって、坐禅をしなければ凡人でしかないということを、誰も知らなければならない。鏡が来れば、鏡が写るという鏡そのものがある。つまり坐禅をやりさえすればすぐ仏になるのであって、本来価値のあるものが現に目の前にあると言う事情を知っている人も比較的少ない。

             「正法眼蔵古鏡」
             1241年旧暦の9月9日
             観音導利興聖宝林寺において衆僧、在家に説示した。


※西嶋先生解説
以上が「古鏡」の巻であります。この南嶽禅師と馬祖禅師の問答は、有名な問答で、それに対して古来から様々な解釈がある。そして多くの人は南嶽禅師が「瓦でも磨けば鏡になるから、一所懸命やれ」と馬祖禅師を激励したという解釈をするけれども、道元禅師はそうお取りにならなかった。そして我々人間は、生身の体ではあるけれども、坐禅をすれば、その瞬間から仏になるという事を説かれた問答だという解釈をとっておられるわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私も御覧のようにいい加減な爺さまなんですが、会社を辞めてまあこんな事だろうとのん気にしておりまして、あんまり難しいことを考えないでおったのですけど、先生の所へ伺って坐禅をやっていますと、まあこんな事はこの辺でいいじゃないかなんて思っていた事がよけい気にかかるようになりましてね。もう少し究めないと気が済まなくなったのは、年寄としてはかえってマイナスの様な気がしますけど、これはどうかという事ですね。

先生
坐禅をしているといろんな事が気になってこのままのんびりしていられなくなったという事は非常に大切なことで、適当にやっているという事では仏道修行はできません。こうしなきゃならんのか、ああしなきゃならんのかと言う事でかなり良心的に問題を考えていかないと仏道修行にはなりません。ただそれと同時に、なぜ坐禅が必要かというと、こうしなきゃならん、ああしなけりゃならんというふうに頭だけで考えていると、頭ばかり先走りしてかえって迷いが大きくなるわけです。坐禅はそういう悩みから逃れるためにやるわけです。

だからそういう点では、坐禅をしながら生活をしているという事は誤魔化しをしなくなるという事と同時に、破局に進むほど極端なところに行かないという保証も坐禅の中にはあるわけです。だから良心的に考えていくと同時に、坐禅によってどこが真ん中かと言う事を常に把んでいくという事、両方が必要だと思います。だからそういう点では、坐禅によって今まで適当にやっていたのがどうも適当にやれなくなったという事はむしろ人間の生き方としては非常に結構なことだと言えると思います。

こういう考え方を申しますと、「いや、そう堅くされたんじゃとてもかなわない」というふうな印象を受けがちですけれども、そういうものを救うのが坐禅です。だから坐禅をやらずに良心的に生きていると苦しくて仕方がなくなるわけです。坐禅をやりながら良心的に生きていると、どうやったらいいかという一番現実に適合した生き方ができるようになると、そういう違いがあるわけです。だからそういう点では、良心的になり過ぎるという心配は坐禅をしている限り気にしなくてもいいと、そういう事になると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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