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正法眼蔵 古鏡 50

南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

南嶽禅師は瓦を持ち出してきて、瓦を鏡にすると言う事で馬祖禅師を教えられた。馬祖禅師も自分自身の生身の体で、坐禅を一所懸命やる事を通して仏になっているのであるから、それは瓦を磨いて鏡を作ることでもある。昔からたくさんの祖師方がおられるけれども、その祖師方の骨に髄にそうした教えがしみ込んで今日に至ったのである。我々の体はそれぞれ生身の体であるけれども、それが坐禅と言う姿を通して仏そのものになっているのである。

坐禅という形で自分自身の体を磨き心を磨いているという事は、坐禅をやる前は汚れていたが、坐禅をやったらきれいになったという事ではない。坐禅をやる前もやっている時も汚れがなかったという事に他ならない。我々の生身の体というものに、何か汚れたものがあると言うわけではない。ただ生身の体であるけれども、それを一所懸命坐禅という状態に置くのである。生身の体を坐禅という形においている時に、仏というものが何の計らいもなしにすぐ出てくる。これが釈尊以来代々の祖師方のやってこられた努力である。

この様な形で、生身の体で坐禅をすれば直ちに仏となると言う事が仮にないとしたならば、初めから仏であろうとも、それがさらに仏になると言う事はあり得ない。その点では、毎日坐禅を実際やるところに仏が現れ鏡が現れると言う事を十分に知らなければならない。また別の立場から考えてみるならば、本来優れたものを一所懸命に磨く事によって、かえって価値のないものにしてしまう事があるかどうかという問題も考えて見る必要がある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「禅病」という言葉が二つあるそうですね。一つは坐禅をしているその事の中には、生理的違和感ですか、病気になる要素を持っている。それから坐禅をしながら禅学を熱心に勉強すると分裂症になってしまうと書かれていました。じゃあならないのは不熱心なのか、その二つの事をお伺いします。

先生
坐禅のやり方が間違っていなければ、「禅病」は絶対に起こりません。それから、不熱心であれば「禅病」が起きないけれども、熱心だったら「禅病」が起きるかと言うと、そういう事も絶対にありません。やっぱりそういう弊害が生まれてくるのは、坐禅のやり方が間違っている、あるいは坐禅に対する基本的な考え方が間違っていると、こういうふうにハッキリ言えると思います。そりゃもう、毎日やらないで、急に一週間も十日も夜も寝ないで「悟るんだ!」と言って頑張ってやったりなんかすればおかしくはなりますよ。

やっぱり人間というのは寝る時には寝る、ご飯を食べる時には食べるという事が原則ですから、そういうごく普通の日常生活の中で、しかもなお坐禅をやっていくというのが本当の坐禅の生活ですよ。人がやらないことを無理に頑張ってみようという事で突飛もない事をやってみた場合、そういうところから弊害が出てくるという事はあり得ますけれどもね。それはやり方が間違っているという事でしかないと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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