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正法眼蔵 古鏡 49

南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師が注釈されます。

この南嶽禅師と馬祖禅師との間に語られた重大な問題に関しては、この問答が行われてから数百年の間、多くの人に南嶽禅師はただただ馬祖禅師に対して坐禅に励めと言われたと解されている。しかしながらこの解釈は必ずしも当たってはいない。真実を極めた方々の行いというものは、凡人の考える境地をはるかに抜け出ている境地である。

真実を極めた南嶽禅師と言えども、瓦を磨くというような具体的な方法で馬祖禅師を教えなかったならば、どうして人に教えるという手段を持つことができよう。この南嶽禅師の様に人に教える力があるという事が、釈尊以来仏教界で伝承して来たところの骨であり髄である。そのような人を教える手立てというものは、様々につくられるものであるけれども、いずれもこれらは仏教徒が使用すべき通常の道具立てである。

そしてこの問答に見られるように、南嶽禅師が馬祖禅師を指導し教えた様子は極めて端的であり率直である。この様な問答の経過を見てわかる様に、釈尊以来代々の祖師方によって正しく伝承されて来た本質というものは、理屈で説明する事ではなく具体的体験による直接の指示である。この問答の意味をどう理解したらいいかというと、まさに知る事ができる。

馬祖禅師の生身の体は瓦に例えられる。その生身の体で一所懸命に坐禅に打ち込んでいる時に、馬祖禅師はそのまま仏になるのである。そして馬祖禅師が一所懸命に坐禅をしている時は、特別なものになるのではなくて馬祖禅師ご自身になるのである。馬祖禅師が馬祖禅師になる時が、坐禅が本当の真価を発揮する時である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
今日地下鉄に乗っていたら、ポスタ-に「たまには束縛されたい」という女性が坐禅のような恰好をしているのを見たんですね。あれは僕はおかしいなあと思って見て来たんですなね。坐禅のような恰好だからいいかもしれませんが「たまには束縛されたい」という…。その逆じゃないかと。

先生
ただそれは、人間の本性というのは真ん中に行きたいという願いがあるんですよ。昭和20年になると、もう今までの束縛は全部なしでいいんだという事で、自由奔放に社会全体が動いたけれども、今日の子供には案外叱ってもらいたいという欲望があるようですよ。だからそういうことは、束縛されたいという欲望も人間にはある。

だからほっぽらかしておかれると、少しは拘束してほしい、少しは叱ってほしいという気持ちが起きるし、口やかましく「あれやっちゃいけない」「これやっちやいけない」言っていると、そういう束縛から抜け出してたまにはこっそりタバコを吸ってみたいと言う風なこともある。だから人間というのは両極端は嫌いだという性格があると思います。だから「たまには束縛されたい」というのも、本来の人間の欲望としてあると思いますね。

質問
いや、ただそれが坐禅のような恰好をしたあれにピッタリした言葉かどうかという・・・。

先生
それはちょっと何とも言えないけどね。坐禅は束縛じゃないですよ。だから「たまには束縛されたい」という事で坐禅というものが写真に載ったりすると、坐禅に対する誤解だという事は言えると思います。

質問
坐禅と言えない、まあ坐禅のような格好だけど。

先生
ええ、ような格好だけど。そういう点では実際にやらないで、はたから見ていろいろな解釈が行われているという事は非常にあると思います、坐禅についても、仏道についても。

質問
そういう意味じゃないかと・・・。

先生
そう、そう。そういう点では大いに誤解があるという風に見て間違いじゃないと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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