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正法眼蔵 古鏡 48

南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師の問答に入ります。

馬祖道一禅師はかつて南嶽懐譲禅師のところで仏道を学んでいた。南嶽懐譲禅師は釈尊と同じ心の姿を馬祖道一禅師に一対一で授けた。それが後に馬祖道一禅師と南嶽懐譲禅師との間で交わされた、瓦を磨くと言う問答の最初の出発点である。その頃、馬祖道一禅師は伝法院と言う庵に住んで、坐禅をする事があまり長い期間ではないがそれでも十余年間に及んだ。その間の、雨の日や夜間の草庵の物淋しい様子は十分想像が出来る。しかし、雪がびっしりと降り積もる冬の寒い部屋でも坐禅を怠る事がなかった。ある時、南嶽懐譲禅師がその馬祖道一禅師の草庵に行った。馬祖道一禅師は立ち上がって南嶽懐譲禅師を出迎えた。

そこで南嶽禅師問う:お前はこの頃どんな事をしておるのか。馬祖禅師言う:近頃、私はただただ坐禅だけをやっております。南嶽禅師問う:坐禅をすることによって、何を意図しているのか。馬祖禅師言う:坐禅をする事によって、仏になろうとしております。

そこで南嶽禅師は即座に一個の瓦を持ってきて、草庵のそばの石に瓦を当てて磨き始めた。馬祖禅師はこれを見て即座に質問した。

馬祖禅師問う:和尚は何をしておられるのですか。南嶽禅師言う:瓦を磨いている。馬祖禅師問う:瓦を磨いて何をなさろうとしているのですか。南嶽禅師言う:瓦を磨いて鏡をつくろうと思う。馬祖禅師問う:瓦を磨いて鏡をつくるという様な事がどうして出来ましょうか。南嶽禅師言う:では坐禅をやって仏になる事が出来るか。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私も新米だ、新米だと思っているうちに、坐禅を始めて五年ぐらいになります。何か兆しがないかと思ったら、この頃決して物を落とさなくなったんです。それもいくらか坐禅の効果かなと・・・。

先生
そういう事はあると思います。つまり人間のミスというものは見えてないからやるんですよ。見えていればミスはない。ところが上の空で横の方を見ていて、眼ではっきりものを見ていないとミスは出るんです。人間のミスというのは、偶然出るんじゃなくて人間がつくるんだと思います。だからその点では、大事な事に眼を向けないで、あんまり大事でない事に眼を向けていて、大事な事が疎かになってミスが起きると言う事はかなりあると思います。

質問
そうすると、転ばなくなったり、怪我をしなくなったりするのも、やっぱりこの効果でございますか。

先生
そういう事は言えると思います。私が言うとたいへん身勝手に聞こえますけれども、私はそう言う事に間違いないと思って確信しています。奇妙なことで、私は年をとってきてからの方が寒さがこたえなくなった。私は若い頃は酒は飲む、タバコは吸うという生活をしておったけれども、酒を飲んだりタバコをすったりしておった時には寒さを強く感じた。だから厚着をしても、まだ寒いと言う状態だった。

だからそういう点では、人間のあり方はかなり色々に変化するもので、年をとってから多少ましになると言う面も確かにある。私は50過ぎてからの方が多少ましになった。30、40の頃はガタガタ働いていたかもしれないけれども、まあ人間としては高い点は取れないような人間だったと思います。ただ50過ぎてから少しずつましになってきた。まだ完全にましではないと思うけど、という実感がありますから、人間の一生というものを考えてみますと、いろんな場面があると言う事です。ただ究極の目的は、私は仏道を知って、仏道を勉強して、仏道の真実を把む事が人生の唯一の目的だと思います。
                              
その点では、社会生活をして人に知られたとか、お金儲けをしたと言う風な事があってもなくてもたいした事ではない。死ぬ間際になって、何のために生きてきたかわからんと言う事ではこれは困る。死ぬ間際になった時に、自分が生きたと言う事に後悔がないというふうにハッ キリ感じ得なければ、人生を生きたことの意味が全くない。だからそういう点では、仏道修行をすると言う事が人生の唯一の目的だと私は考えます。
    
そうするとやっぱり「また始まった」と言う事になるけれども、私はそう確信しておるわけです。 「正法眼蔵」でも、仏道を勉強する事を人生の唯一の目標として説いておられるけれども、若い頃にはその事が私にはわからなかった。 ただ60前後になってくると、なるほど仏道を勉強する以外に人生の目的はないなと言う事を非常に強く感じる。 「お前はたまたま仏教を勉強していたからそういう勝手な事を言うんであって人生には色んな沢山の目的があるから、仏道を勉強するだけが人生の目的ではない」と沢山の人は主張するだろうと思いますが、私の60何年間生きた限りの実感では、仏道を勉強してしっかり把んで何のために生きて来 たのかがハッキリわかる事が、人生の唯一の目標だなという感じを持つわけ であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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