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正法眼蔵 古鏡 46

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

「地面にかかとがついていない」と言う表現が行われているけれども、その地面と言う言葉は一体何を指しているのであろうか。我々人間は地面というものがあって、それが不動の非常にしっかりしたものだと考えているけれども、単に人間という種類の見方に基準をおいてとりあえず地面と呼んでいるだけである。

※西嶋先生解説    
――この当時は、もちろん地動説はなかったけれども、宗教的な直観から、地面が不動のもの、絶対のものだとはどうも言えないという捉え方は、この当時からあったものと思われる。――

さらに人間以外の様々な種類の立場から見るならば、人間の頭では考える事の出来ない一切のものから開放された現実の世界だという見方もある。また真実を得た方々が行動するところの、具体的な現実の世界だと言う見方もある。そこで、「かかと」をつけるための地面とは一体何を指すのかが問題になる。この大地も本当の実在であるのか、実在ではないのかどうか、その辺も断定できないし、地面というものがこの真実の世界の中には、ほんの爪の先ほどもないのかどうか。そうした問題についても、質問を繰り返し繰り返しするべきであり、自分以外のもの、客観世界についての解説をし、自分自身についての解説をすべきである。

また「かかと」と言ってみても、それが地面についている方が妥当なのか、地面についていない方が妥当なのか、その辺の問題も見極めなければならないし、一体どのような状態を問題にして「地面にかかとがついていない」と言ったのか、その辺の問題も検討する必要がある。仏道の真実に目覚めた場合には、立っている地面そのものも、言葉には表す事の出来ない現実そのものであって、土と言うもので説明出来るものではない。そういう点では、地面に「かかと」がついているとも言えないし、また地面に「かかと」がついていないとも言えない状態であろう。結局は言葉では決め付ける事の出来ない現実そのものである。

そうしてみると、玄沙師備禅師の「地面にかかとがついていない」という言葉は、決して雪峰義存禅師の立場を低く評価した言葉ではなくて、老和尚そのものの様子を述べたまでであり、雪峰義存禅師の「かかと」のその瞬間における現実のあり方を説いたまでである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
悪い事をやって、最後まで自分のやった事は正しいと思い込んでいれば、それで結構ということになるのですか・・・

質問
そう。人間の一生には、誰でもそういう見方で通る面があるんです。だからどんな生き方をしても、「俺はこれしか生きれなかったんだ」「俺は全精力を尽くして刑務所に二十年も三十年もいたんだ」と言うふうな人だっているわけです。だからそういう点では、各人の人生が絶対だと言う見方があると同時に、客観的な基準から見て「さてどうか」と言う問題がある。その客観的な基準というのを「法」と言います。だから「法」の立場から見てどうか。

政治家のAさんが、涙を流したというような事で「あの人はあの人で一所懸命やったんだから」と言う見方が確かに出来ます。はたから軽率に非難や批評は出来ないわけです。政治家のAさんは、Aさんでそれなりの一生があり、自信があるんだし、また努力があったんだと言う事、これは認めなければならない。それと同時に、客観的な基準に照らしてどうかと言う問題があるわけです。宗教というのは、この客観的な基準を求めるわけです。 

客観的基準なしに、「ワァ-、俺はやるだけやった、もうお終い」と言う様な事、これも 一つの生き方だけれども、長い目で見て果たして悔いがなかったかどうかという考え方も必要だと言うのが宗教の生まれてくる根源です。「俺はもう一所懸命やったんだからいいんだ」と言ってみても、もういよいよあと余命いくばくもないという時期に来て後悔しないかどうかという事もある。だから宗教というものを考え、仏道と言うものを考えるのは、そういう基準に照らして果たしてイザとなった時に、後悔が残らないかどうかと言う問題も含めて、宗教があり仏道があると言う事が言えると思います。

質問
その客観的基準というのが難しいですね。それこそ坐禅をしなきゃ-・・・。

先生
そう、そう、そういうことです。客観的基準はいくら本を読んでも書いてない。普通は客観的な基準が本に書いてあると思う。だから本屋に行って、いろんな本を買って来て一所懸命読むわけです。しかし、そういう本には書いてない事が、客観的な基準としてあるわけです。それが仏教の主張です。だから坐禅をやる事で本には書いてない客観的な基準を身につける。こういう事になるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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