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正法眼蔵 古鏡 43

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

玄沙師備禅師の様に、「それでは目の前の炉の大きさが説明できるか」と言う問いかけが出来るような状態になってくると、一丈だとか一尺だとかと説明していたのも、本当の意味で現実の大きさを説明したことにはなっていなかった、と言う事ができるかも知れない。そして、この現在の瞬間瞬間において、あらゆる束縛を脱して生き抜くという事が我々の人生に与えられた原則である。その原則と言うものを疑う訳にはいかない。炉の大きさを言葉で説明し尽くす事は出来るものではないという事の趣旨は、玄沙師備禅師の言葉によってそれを理解する事が出来る。

玄沙師備禅師が雪峰義存禅師の答えに対して、「足のかかとがまだ地についていないようなところがあります、」と言ったが、その言葉によって炉の大きさを具体的に示そうとするならば、一体どうしなければならないかという事がわかってこよう。現在の瞬間に我々に与えられたもの、この現実と言うものを取り落としてはならない。現実というものに拘ってビクビクしている事も我々の正しい生き方ではない。現実を打ち破って、どう生きていったらいいかと言う局面を打開していくと言う問題もある。これが人間の努力である。
 
※西嶋先生の解説   
――現実というものを取り落としてはならない。 これが仏教思想の基本である。大抵は現在というものをあまり重視しないで、「あの時、ああすればよかった、こうすればよかった」と言う様な事で、昔の過ぎ去った事を悔やんだり、あるいは、「昔はよかった」と大いに昔を懐かしんだりする。しかし、こう言う事は我々の人生にとってほとんど意味がない。
   
そうかと思うと、別の生き方、「そのうちよくなります」「そのうちに一所懸命やりますから、今日はちょっと休ませてください」「明日は一所懸命やりますから、今日はちょっと昼寝をさせて下さい」というふうな生き方もある。こういう立場からすると、翌日になってみると、「いや、今日一日はちょっと疲れてますから、明日から一所懸命やりますから」と毎日「明日から」「明日から」と言っているうちに終わりに近づくという事もありうる。そうすると、与えられた今日というものを一番大切に考えて、それをどう生きるかという事だけが、我々の人生という事になる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生の仏教というのは仏道で、日蓮宗とか浄土宗とかは除外してあるんですか。

先生
というよりもね、私は日蓮宗も浄土宗の思想も勉強したことがないから、日蓮宗の説くところ、浄土宗の説くところが仏道であるならば、私の言っている事と同じになるという見方です。ただ自分自身は日蓮宗とか浄土宗を勉強していないから、一致しているか一致していないかはまだわからないと、そういう事が私の現在の立場です。

質問
今、私が申し上げたのは、これ(先生の講義)が印刷されますが、その時に先生のおっしゃる仏教というものは先生の理解する仏教で、理解できない仏教と称しているものは別ではありませんか・・・。余分なことを聞くようですけど・・・。

先生
うん、その点では「仏教」という看板を掲げていても仏教思想ではない考え方はいくらでもあるという事、これは言えると思います。それから政治権力と仏教との関係ですけれども、政治権力から影響を受けるような仏教は仏教でなくなるという事情があると思います。というのは、仏道というのは政治権力を乗り越えてその上にあるものです。だから政治権力を指導する立場にはありますけれども、政治権力の助けを借りて発展するという形のものではないというのが本当の意味の仏道だと、こういう関係にあると思います。

だから、歴史的事実として確かに政治権力者の理解によって仏道が盛んになったではないかという、そういう歴史的事実はありますけれども、そういう政治的な庇護を受けた段階から仏道は仏道でないものに変化していくと、そういう危険も同時にはらんでいるという事があると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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