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正法眼蔵 古鏡 41

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

玄沙師備禅師が「この我々の住んでいる世界は、たった一粒の真珠のような美しい珠である」と表現されたけれども、ここで古鏡(永遠の価値を持っている鏡)と言っているのは、もっと具体的なものであって、玄沙師備禅師が一粒の真珠という形で表現されたものと同じではない。鏡を考える場合に、それが光り輝いているとか、曇っているとかという相対的な見方をすべきではない。その鏡が四角であるとか円いとかという論議する必要もない。

我々の住んでいる宇宙は、一粒の真珠の珠の様な素晴らしい世界であると言えるけれども、それが直ちにここで述べられている古鏡(永遠の価値を持った鏡)と同じだと理解すべきではない。古鏡というものはもっと具体的な我々の日常生活に即したものであるから、そこに外国人や中国人が出てくる事と直接に関係を持たせる必要はなく、我々が瞬間瞬間に持つところの縦にも横にも光輝いたこの現実の世界というものが古鏡というものの意味である。

「古鏡」と言う考え方は、具体的な瞬間瞬間の限られた場所における現実を指すものである。それが多数であるとか、大きいとかという抽象的な説明では説明することが出来ない。ここでは、古鏡の広さについて言っている。その広さとは、総合的かつ具体的な大きさを問題にしている。単に広さだけを言おうとしているのではない。ここで言う広さとは具体的なもので、世間の人が、二寸・三寸と言い、七個・八個と数えるのと少しも変わりがない。



          ―西嶋先生の話―

                        --つづき

「こんなはずはない、こんなはずはない」と言って、一所懸命に歩きに歩いて、とうとう疲れて、もうそれ以上歩けなくなるまで歩いて、遭難するという例が実際にあるという話を聞くわけでありますが、どこが真っすぐで、どこが曲がっておるかという事が見当がつかないと、苦労に苦労を重ねても、いい結果が出てこないという事は、人間の生活の上で非常にあるわけです。そうすると、いま自分がどういう状況にあるか、どっちの方角に向かって歩いていけばいいのかという事を見極めるという事が、人間が幸福になるためにはかなり大切なことだろうと思うわけであります。

ところが、この自分がどうしたらいいかというのは、本には書いてない。大抵、本に書いてあると思っている。だからあの本を読む、この本を読むという事になるなるわけですけれども、自分が具体的にどう動かなければならないかという事は、本には直接書いてない。そうすると自分の方向というものは自分で知らなければならない。坐禅というのは、この自分がどうしたらいいかという方向を、自分の体で見つけるもの。それが坐禅と言えようかと思うわけであります。

今日は仏道というものが衰えておるから、たいていの人が、坐禅をやらないでも人間らしい生活はできると思っている。ただ私のわずかの経験ではありますけれども、坐禅をやらずに人間らしい生活はおそらくできないだろう。私自身がかなり長い年限、坐禅をやっておるわけだけれども、一日でも坐禅をサボったならば、おそらく自分は自信を失うと思う。多少、大きな顔をしてこういうお話を皆さんにしておるというのも、結局は毎日坐禅をやっておるからと言うだけであって、それだけが頼り。だから一日でもサボると、すっかり自信を失って、どうしたらいいのかわからんという事にすぐなるだろうと思う。

そういう点では坐禅というものは自分の方向を見出すためのもの。坐禅をやることによって、何をしたらいいかという事を一日一日見極めて、迷わずに生きていくというのが仏道生活という風になろうかと思うわけであります。商売の問題を考えるにしても、まず何をしなきゃならんかというと、現実をよく見るという事、自分自身の気持ちが落ち着くという事がかなり大切なことであります。だからそういう点では、自分の気持ちを落ち着けて、実情がどうなっているかをしっかり見極めれば、どうしたらいいかという事はおのずから出てくるというふうな事情があろうかと考えるわけであります。

※私の独り言。
坐禅は自宅でやるのがいちばん。雨が降っても、風が吹いても、雪が積もっても自宅だからこそ毎日続けられる。自宅で坐禅をしていれば、たとえ超高齢者になったとしても、いつものように毎日坐禅が続けられる。「坐禅は安楽の法門なり」。


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コメント
559:坐禅 by せっせせっせ on 2016/07/23 at 23:19:05

「一日でも坐禅をサボったならば、おそらく自分は自信を失う」
西嶋先生でさえそうなんだから、私なんかはもうとても坐禅をやらないではその日一日が怖くて、なんか息して生きているのが失礼なようで、とても坐禅しないではいられませんね。
「坐禅をやることによって、何をしたらいいかという事を一日一日見極めて、迷わずに生きていくというのが仏道生活」
「現実をよく見て、自分の気持ちを落ち着かせて対応する」
ー西嶋先生の話ー
読んでて本当に百万力になります。



560:Re: 坐禅 by 幽村芳春 on 2016/07/24 at 15:58:49

せっせせっせさん、コメントありがとうございます。

今ブログで紹介している先生の講義は1979年、先生60才の頃の提唱です。
毎日坐禅をしていると、先生の言われることがよくわかりますよね。
先生は90才になっても坐禅をされ、こんなことも言っていました。「最近は結跏趺坐が大変になってきたので半跏跏趺でやってるよ」と。晩年先生のご自宅におじゃまさせていただきましたが、先生の生活は仏道そのものでした。
先生の話は本当に百万力になりますね。


プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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