トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 古鏡 40

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師との問答を参究してみるに、世界の広さは、世間一般の考え方では、たくさんの無数の世界が寄り集まった非常に大きな世界とも言い、無限の広がりを持つ宇宙だと言われているが、もっと具体的に、現実的な世界とはどの程度のものかという事を考えてみると、非常に狭い範囲しか考えることが出来ない、自分自身の世界そのものであって、せいぜい隣村の向こう側程度しか考えられないのが人間の生きている世界だ。

このような具体的な世界というものを、この雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答の中では「一丈」と言われたのである。我々の人間のあり方というものが、一丈の広さしかないならば、その人の住む世界は一丈の広さしかないと言れたのである。このような形で、この雪峰義存禅師が言われた一丈の広さというものを勉強することによって、世界の広さというものが一体どのようなものであるかという事の一端を見ることが出来る。

また普通、この古鏡(永遠の価値を持った鏡)という言葉を聞いた場合には、一枚の薄氷のようなもので、それに姿を映す、何かが映るという考え方をする。しかし、そのような理解の仕方ではこの問答の本当の理解にはならない。具体的な広さというものは、世界の広さ一丈と同じではあるけれども、世界の広さは通常、抽象的には無限のものだと考えている。その具体的なものの形や様子というものが、その無限のものと同じかどうかという事を考えてみる必要があるし、全く同じような境地のものかどうかという事を考えてみる必要がある。



               ―西嶋先生の話―

最近新聞を見ておりまして実にやりきれない感じを受けるのは、小さな女の子がいたずらされて殺されるという、これが二、三度続けて起きているわけです。ああいう事件を見ると、犯人は気違いではなかろうか、あるいは人間ではないんではなかろうかという感じを持つわけでありますが、彼らもやはり人間であることに間違いない。その証拠には目も二つあるし、手は二本、足も二本という事で、外見は我々と少しも変わらない。彼らが目が三つあるとか、手が四本ある、あるいは足が五本あるとかという事であれば、まだ納得もいくわけでありますけれども、外見は我々と全く違わない。

そうすると、どこが違っておるかという問題になるわけでありますが、どこが違うかというと「道から外れておる」という問題があると思います。「道から外れておる」というと、いかにも抽象的で、何のことを言ってるかよくわからん面がありますが、今日、大事な交通機関である自動車に喩えて考えてみるとわりあい分かりがいい。車は非常に便利なもの、早いもの、したがって、高速道路のような整備された道を走っておる分には、実に快適で実に早く目的地に着く。ところが優れた交通機関でありますけれども、泥の中を走る、岩の中を走る、草原を走るという事になると、実に骨が折れる。スピ-ドが出る車であればあるほど、あっちへ曲がったり、こっちへ曲がったり、飛び跳ねたりして、結局ひっくり返ってしまうという事にもなりかねない。

そうすると、車が優れた乗り物であるという事は、道路があるという事と密接な関係にある。道がないと、車その物が役に立たないという問題がある。このことは人間の場合でも全く同じで、道を見失ってしまうと、人間、どこへ行くかわからない。保証の限りではない。どんなおかしなこともやるし、どんなまずい結果が出ないとも限らない。その点では、人間も車と全く同じで、道があるかどうか、道路から外れているか外れていないか、という事がかなり大切なことである。彼らも同じ人間であるけれども、道を外していって、自分がどういうことをやっているのかよく分からなくて、本人は大いに苦しみながら、五里霧中で、あくせく、あくせく生きているうちに、ああいう結果が出てくるというふうにも考えられるわけです。

その点では、道を外さないという事、しっかり道を見ておるという事、これは人間にとってかなり大切なことだ、という事になろうかと思うわけであります。
                         つづく--


いつも訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。



関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-