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正法眼蔵 古鏡 38

雪峰義存禅師と三聖院慧然禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

三聖院慧然禅師の言葉に対して雪峰義存禅師が言われるには「なるほどその通りだ。老僧(わし)が今まで色々と言葉を使い理屈を言ってきたけれども、まあそれはご破算にしよう。」と。この言葉は自分の言ったことは間違いであったと言う意味に取るのが普通であるけれども、この場合はその様に理解すべきではない。老僧とは、自分自身の家にどっかと腰を下ろして、びくともしないところの一人前の人間の事である。

いわゆるあれこれといろんな知識を得る、いろんな勉強をするという事ではなしに、もっぱら自分自身が自分の主人公であることに一所懸命になっていることである。日常生活とは実に複雑であるから、様々な変化があり、鬼の様な姿をしたり、神の様な姿をするけれども、それを貫いているところのたった一つのものは、自分自身の主人であろうとして一所懸命に努力している日常生活に他ならない。雪峰義存禅師の生活と言えども、自分自身の主人として着実に生きていこうとする一日一日の努力に他ならない。

雪峰義存禅師は「老僧の罪」だと言っているけれども、この言葉の意味は、僧侶としてあるいは寺院の住職としてやるべき仕事がたくさん重なっている事に他ならない。つらつら考えてみるに、雪峰禅師は徳山禅師の系統の方であり、三聖院慧然禅師は臨済禅師の優れた弟子である。二人の方々は、それぞれ青原禅師の遠い孫弟子であり、南嶽禅師の遠い流れをくむ者である。雪峰義存禅師、三聖院慧然禅師のお二人の方々が時代を超えた古鏡(永遠の価値を持った鏡)の中に住み、また古鏡を保持してこられた姿はこの問答の中に表れている通りである。

この雪峰義存禅師、三聖院慧然禅師との間の問答と言うものは、時代がたった後に仏道を勉強しようとする者にとって、非常に優れた鏡であり非常に優れた手本である。



               ―西嶋先生の話―
                       --つづき

神との関係からみると、次のような考え方がある。有神論(神が人間とは別にあって、この世の中を支配していると言う考え方)・無神論(神などは、全然いないんだと言う考え方)・汎神論(我々の周囲にある一切のモノの中に、神と同じ様な性質が入っている)
          
有神論を説く宗教では、神に関する考え方で一番進んでいるのは有神論だと主張する。ところがどうも仏教の立場からすると、そうは言えないように思う。なぜかと言うと、人類の歴史を考えてみると、どのような原始民族の中にもたいてい神がいる。未開な民族ほど神がたくさんある。人間が神というものを考えるのは、比較的初期の段階です。ある程度文明が進んでくると、疑問が生まれてくる。「神はあるのか、どうか」と言う疑問が出てきて、そういうものを否定する考え方も出てくる。

ただそう言うものを否定した事が、本当に正しいかどうかという点の反省が加わると、神というものは我々の世界とは別にあるのではなくて、我々の住むこの世界の中にそういう神のごとき尊いものが含まれているのだという考え方が出てくる。だから仏教の立場からすると、有神論から無神論になって、それから「汎神論」になると言う理解が出来るわけです。そういう点では、仏教思想というものが今後世界の人々から、もう一度神とか宗教とかという問題を考える場合に非常に参考になる考え方となるであろう。

今日はまだ、仏教思想はあまり一般的ではない。だから、仏教を勉強する人はむしろ例外であろう。大抵の人は神があって、本当は神の様にならなければならないと思っている。でもそれはちょっと切ないから、まあそれよりちょっと下の動物と神の間で我慢してもらおうという考え方をしている。ところが、神の下という事は、人間よりも下ということになりがちです。そして今度はむしろ胡坐をかいて動物である事が人間的である事だ、と逆に居直っている考え方もある。

そういう考え方が人間の幸福につながるかどうか、はなはだ疑問だとそういう問題があろうかと思う。神と言うものと仏教の関係という事を大雑把にいうと、今述べたような事になろうかと思うわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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