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正法眼蔵 古鏡 36

雪峰義存禅師と三聖院慧然禅師との問答について道元禅師が注釈されます。

その点では、三聖院慧然禅師の「無限に近い長い時間(永遠の時間)を経歴しても名付けようがないものである」という言葉は評判が高くたくさんの人々によって説かれている。しかし「それを無理に古鏡という名前を持ち出して表現する必要はないではありませんか」という言葉は、前の言葉に比べてあまり内容のないつまらないものに変わってしまう恐れがある。

この際、三聖院慧然禅師の言葉に向かって、雪峰義存禅師は「古鏡だ、古鏡だ」とさらに念を押して言うべきであるが、雪峰義存禅師はそのように言わないで「瑕生ズ」と言われた。これは「きずが出来てしまった」という意味である。古鏡にどうしてきずが生じるはずがあろうと考えられるけれども、その古鏡にきずが生じたと言われた事は、古鏡を目にして、永遠に名付け様がない性質のものであると言うふうに概念規定したことを、「きず」と言われたのであろう。しかしながら、古鏡にきずが生じたと言う言葉は、古鏡のすべてを説きつくしている。

三聖院慧然禅師はまだ、古鏡にきずを生じたという狭い見方を脱け出していないところから、今まで述べて来た様々な検討というものはすべて古鏡におけるきずになってしまっている。古鏡にもきずは生じ得るものであり、たとえきずを生じたとしても、古鏡は古鏡に他ならないと学ぶ事こそ古鏡を勉強するゆえんである。
                             
※西嶋先生解説  
――道元禅師がここで言っておられることは、現実というものは、無傷な理想的なものではない。現実というものは、傷もあるけれども、傷があるなりに絶対的なものだ、永遠のものだ、価値の高いものだという思想をここで出されたわけ。この辺が道元禅師が現実というものを直視されたところという事になる。普通の説き方でいくと、ほめた説き方をするか、けなした説き方にするかどっちかである。道元禅師の場合は、傷は傷ながらに、しかも絶対の価値を持っているという事を言われているわけであります。我々の住んでいる現実の世界は、決して傷のないものではない。ある意味では傷だらけかもしれない。しかしその傷だらけの現実というものは絶対の現実である。無限の価値があるというのが、ここに説かれた主張という事になるわけであります。――



               ―西嶋先生の話―                 
                       --つづき

一方において「物」だけを信じる考え方。神様はこの世の中には無いという事を信じる考え方にもなるわけです。その考え方が正しくて、社会の秩序のために役立つかと言うとどうも役に立たない。むしろ弊害がある。なぜかと言うと、人間を人間以下の状態にするからです。人間は動物であるけれども、脳細胞が発達してかなり能力の進んだ動物である。ところが、そういう進んだ動物(人間)としての自覚を持たずに、人間も動物一般の中の一つの種類に過ぎないという事になると、人間以下の生き方がむしろ人間らしい生き方だと言う考え方になるわけです。

そうすると、金があって暇があれば、酒でも飲んでデレデレ遊んでいるのが人間として最も望ましい状態だとなりかねない。なぜ働くのかと聞いてみると、金を儲けるために働く、それだけの為に働くと言う考え方になる。人間が働く事の中に持っている非常に尊い意味と言うものを、ただ見せ掛けの物、本当の物ではないと言う事で働く事の意味まで否定すると言う考え方になる。

仏教の考え方とは、神様というふうな人間よりも上の基準を持たない。そして、まず人間自身を十分に見つめる。さらに、人間とはどういうものか、一体どの程度の事が出来るのかという事をハッキリ見定めて、その人間がやれる事だけをやろうというのが仏教的な考え方である。だから、そういう点では仏教は神様をあまり問題にしない。そうかといって、動物的であるのが人間的なんだという考え方もしない。人間には人間としての本質的なあり方があるから動物と同じではない。人間には人間としての特徴がある。

人間は動物の中でも、やや脳細胞が進んで色々とモノを考えられる。そして、どの様に、やったらいいかと自分の頭で自分の行動を規律する事が出来る。そう言う動物だという事もハッキリ見据える。その上で、どういう生き方をしていったらいいか、という事を教える思想が仏教であるという事になろうかと思うわけであります。

                       つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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