トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 古鏡 35

三聖院慧然禅師の言われた言葉について道元禅師が注釈されます。

この言葉は。三聖院慧然禅師が我々や猿が持っている古鏡(永遠の価値を持った鏡)を現実に示したところの優れた言葉である。ここで無限に近い時間と言っているけれども、それは、心というものが現れ、心の中の想念というものが現れてくると、言葉というものが現れ、ものを考えるという事が起こり、理屈というものが出てくるが、そういう考えが生まれる以前という事を問題にする。確かに永遠の時間というものはあるけれども、その中で理屈が頭を出さない状態を言うのである。

名前がないというのはどういうことかというと、太陽の姿、月の姿は、何千年、何万年、何億年という歳月を経ようと変わらずに東から出て西に沈んでいる。それと同じように、人間、猿がもっている性質を古鏡にたとえるならば、そういう姿というものも、古鏡という名前があろうとなかろうと疑う事の出来ない現実として我々の目の前にある。また明鏡(くもりのない鏡)というものも人間の姿の中に具わっている、猿の姿の中に具わっている。

言葉というものを離れて、名前というものを離れて真実そのものに我々が触れるならば、永遠の時間などと言ってみても儚い言葉だけの問題であって、永遠の時間と言う事でも言い表す事の出来ない現実そのものである。そして無限の時間ということも、この現実を表現する事が出来ないのであれば、三聖院慧然禅師の言葉もまだ真実を表現した言葉というわけにはいかないであろう。しかしながら、心に想念が全く萌さないその前ということは何を言っているかと言えば、今日である。現在である。現在の瞬間である。いま現に我々がここにいるところの実体そのものであるから、現在の与えられた瞬間瞬間をうかうかと過ごしてはならない。



               ―西嶋先生の話―

今日は、最初に神様の話をしようと思う。神様の話と言っても別にキリスト教の話をするのではない。神と仏教とがどういう関係にあるかと言う問題をお話しようかと思います。一般に宗教を考えてみる場合に、神を信じる考え方という理解の仕方をほとんどの人がしている。仏教にも、神、仏と言う言葉がある。仏さんと神様とが大体同じようなもので、仏さんを信じる事は神様を信じる事と同じ様なものと言う考え方がある。

仏教の立場から見て正しいかどうかと言うとかなり疑問がある。その事はどう言う事かと言うと、神様を信じるという事ははたして弊害がないかどうかと言う問題を考えてみなければならない。普通は神様を信じる事は大変結構な事で、人が皆、神様を信じるようになれば世の中うまく治まるだろうと考えている。神様に対する信仰が盛んになる事が社会のために大変役立つと考えている。具体的に言うとどういう事になるか。

一つには人間が神を信じるという事は、人間以上の完全無欠のモノがあると信じるわけです。人間以外に完全無欠なモノがあると言う事を信じる事は、人間は神様ではないのだから、この位のことはやってもいいと言う考え方になる。人間は神様と違うのだから、ある程度悪い事をやっても仕方がない、ある程度怠けても仕方がないと、こういう考え方が神様を信仰すると言う考え方の裏側にはどうしても出がちである。それからもう一つは、神様という完全無欠なものを信じて、人間がその状態に近づこうと一所懸命努力するけれども大体そういう努力は目的に到達しない。なぜ目的に到達しないかと言うと人間と神とは違うから。

人間を神という別のモノに近づけようとする事は、本来出来ない事をやろうと思って一所懸命努力するという事にもなる。そうすると、いくらやってみてもどうしても達成できないという事になる。だから、「あ-、あきらめた、神も仏もあるものか、もう宗教はやめ、神様を信じるのはやめ」と言う考え方が出てくる。そうして、そういう考え方から生まれてくるのが、一方において物だけを信じる考え方。神様というものは、この世の中には無いという事を信じる考え方にもなるわけです。

                            つづく--
  

いつも訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。



関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-