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正法眼蔵 古鏡 34

雪峰義存禅師が言われた「どの猿も、背中に人間と同じように古鏡(永遠の価値を持った鏡)をそなえている」に対して三聖院慧然禅師が言う

確かにそれはまさにその通りだけれども、無限に近い長い時間(永遠の時間)を経歴しても名付けようがないものであるから、それを無理に古鏡という名前を持ち出して表現する必要はないではありませんか。

※西嶋先生解説
このことはどういうことかというと、我々は今日、言葉というものを持っている。言葉というものを使っていろんなことを考える。「机」という言葉がある。「畳」という言葉がある。そういう言葉があるから、その言葉を使っていろいろなことが考えられる。ところが現実というものは、「机」という言葉がなくても机はあり、「畳」という言葉がなくても畳というものはあり得る。

だから現実というものは、言葉があるからあるんではなくて、言葉があろうとなかろうと、現実というものは厳然として存在するというのが我々の生活上の事実である。このことを我々はよく見落とす。頭が進んでくると、何でもかんでも言葉で解決しようとする。そうすると、わからないことは本に書いてあると思う。大抵のことは本に書いてあるけれども、人生問題となるとなかなか本には書いてない。

なぜ本には書いてないかというと、名前が出来る以前の現実そのものを問題としているのだから「人間」という言葉「人」という言葉があってもなくても、人間というものはあるんだし、悩みはあるんだし、喜びはあるという事が厳然たる事実として我々の目の前にある。だから言葉があろうとなかろうと、永遠の過去からこの現実の世界というものはずうっと続いておるという事も言えると思う。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
前のお話の中で、占い師の話が出ましたね。自分でわからんものは人にもわからんというのは、いささか言葉が走ったような気がするんでありまして、そういう筆法で行くと、コンサルタントの立場がなくなるわけでありますが(笑い)。やはり専門家は素人から見れば、まさに魔法使いというか、たまげたもんですよ。そういう経験があるんです、私どもの専門外の事で。

たとえば私、台湾から翡翠の見本を預かって来たんですよね。「これを日本と提携して、商売になるように世話をしてくれ」と。私、そういう宝石の知識が全然ないもんで、ある宝石研究所へ行きましたよ。袋から翡翠を出しかけたとたんで、「もうわかった、わかった」というんです。「これは台湾からお持ちでしょう」と。「だめですよ。コマ-シャルベ-スに乗りませんよ」という説明なんですね。まさに専門家というものは恐るべきものだと私見直しましたね。

先生
それはあると思いますよ。だからそういう知識の問題と、場面が違う問題があるんですよ。迷っているときに人からこうだ、ああだと言われて、それが大いに参考になるという事は確かにあります。

質問
そうです。その占い師にも、本物が半分、にせものが半分でしょう、恐らくね。まあ傾聴すべきものもありますね、あるでしょう・・・。

先生
ただ私は占い師とか易者というのは信じないな。それは、経験を積めば、相手がどんな境遇とか、どんなことを心配しているとか、どういうことを言ったら喜ぶかとか、それはわかりますよ。だから相手の喜びそうなことをチョコチュコと言って、お礼をもらうという事ですけどね。

質問
全部が全部じゃないけれどもね――という事は言った方が、先生、敵にされないで済みますよ。じゃ半分はにせものだ(笑い)。

先生
だから見てもらう方が、みんな、わらをもつかむような気持で行くという事が、やっぱり、まだまだ時代として寂しいという感じがします。いいとか悪いとかじゃなくてね、時代の進み具合が、ちょっとまだ寂しいという感じはあります。だから、そういうことが慰めになる人がいるという事、それからまた、慰めになっているという点で、役立っているという事は言えると同時に、そういうもんを必要としているという事はやや寂しいという事があると思いますね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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