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正法眼蔵 古鏡 29

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

そのとき玄沙師備禅師言う。「自分は、どうもその様な表現はいたしません」と。雪峰義存禅師言う。「お前の場合は、一体どう言う返事をするのか」と。玄沙師備禅師が言う。「それでは和尚にお願いしたい、同じような質問を私にしてください」と。

ここで玄沙師備禅師が「それでは和尚にお願いしたい、同じような質問を私にしてください」と言っている言葉を、うかうかと見過ごしてはならない。師匠と弟子という関係の仏道修行に関連してきわめて微妙な機敏を理解した同士でないならば、どうしてこの様に師匠自身が質問し、それに対して弟子が師匠にさらに質問をお願いすると言う緊密な関係が生まれる事があろう。

この玄沙師備禅師の様に、師匠に対して「どうか同じ質問をしてください」とお願いの出来る時期に到達している場合には、その当人たちは例外なしにその質問した時点において、すでに理解に到達していると言う事も言えるであろう。またこのような質問が出る時点においては、現実そのものと聞く方も聞かれる方も直面しているのであるから、現実を逃げ回って逃げ隠れすることはできない。

玄沙師備禅師が雪峰義存禅師に「どうか同じ質問をしてください」とお願いしたので、雪峰義存禅師がその願いの通りに「その輝いている鏡の前に、もう一枚の鏡が出て来たならば、一体どういうことになるか」と質問した。この師匠と弟子との間に行われた質問に関連しては、師匠も弟子も一体となって、古鏡(永遠の価値を持った鏡)というものを参究している姿である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                              --つづき

だからそれだけにうんざりしちゃうんだね。それで仏教がなかなか盛んにならない「いや、そんな固いことを言われたって、とてもたまらんよ。まあたまには酒も飲みたいし、遊びもしたいし・・・」という事になるわけだけれど、酒を飲んだり、遊んだりしても、失われていく時間というのは自分自身の時間。だからその時間を自分がどう使ったときに「俺は生きた」「俺は一所懸命やった」という満足感が得られるだろうかという問題になる。

どう生きるかという事は人様の事ではない、自分自身の事。自分自身がいかに満足するか満足しないかという問題に尽きる。まあ大抵の人は、そう満足したくないから「ちょっとは横道にそれて・・・」という風に思うわけだけど、結局自分の人生というものを無駄に使っているという事に他ならないともいえようかと思う。それと同時に仏教というのは、確かにまあ厳しい教えだね。甘いやさしい教えのようだけど、かなり厳しいところがある。ただ人生そのものが厳しい、現実そのものが厳しいんだから、その厳しさというものを、「厳しいぞ」と教えられたのが釈尊だという事になるわけでね。

厳しくない人生を「厳しいぞ」と教えられたんでは、これは間違いだろうし、実際に厳しいものを「そう固く考えなくてもいいよ」というふうに教えられたら、これも間違いだ。釈尊は厳しい人生を「厳しいぞ」と言われたわけ。だからこれはやむを得ない。我々は厳しい人生を生きているんだから逃げるわけにはいかない。今日のところも逃げ回っても逃げる場所がないぞと言われている。まあ私もあんまり厳しいことばかり言いたくないけれどもね。だけれども、「正法眼蔵」にこう書いてあるんだし、釈尊の教えがそうなっているんだから、釈尊の教え通りにしゃべるとなると、どうしてもこういう耳の痛い話にならざるを得ない。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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