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正法眼蔵 古鏡 28

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

その点では、雪峰義存禅師が言われた言葉の中でも、古鏡(永遠の価値を持った鏡)というものが一枚あり、明鏡(くもりのない鏡)というものがまた一枚あるのである。そして古鏡の前に明境が現れたまさにその時点においては、古鏡だけの時に現れた外国人、中国人を追い払いまったく否定してしまうと言う事ではない。鏡と鏡が向かい合って共に隠れると言うが、その事が外国人、中国人の存在そのものを否定している訳ではない。たまたま、そこに現れなかっただけの事である。そういう事をはっきり知らなければならない。

今ここで鏡を例にとって古鏡というものの前に、外国人が来れば外国人が映り、中国人がくれば中国人が映ると言っているけれども、その現れ方というものは、古鏡の上に来たり現れたりすると言っているわけではない。また鏡の中に外国人が映り中国人が映るとも言ってはいない。古鏡の外に現れると言っているわけでもない。古鏡と同時に現れてくるとも言っていない。ここで外国人が現れた、中国人が現れたと言っているけれども、その意味は、鏡そのものが外国人を出現させ、鏡そのものが中国人を出現させたと言う関係を言っているのである。

鏡と鏡が向き合って、外国人も中国人も共に姿を見せない時も、鏡はやはり二枚そこに残っていたと言う考え方をするならば、現われるという言葉の意味がハッキリわかっていないし、現れて来ると言う言葉の意味がハッキリわかっていない。それは、錯乱している、全く気が狂っていると表現しても、まだ十分でないほど、問題の本質がわかっていない。



          ―西嶋先生にある人が質問した― 
                          --つづき

ところが各人には自分自身の人生がある。自分自身の生命というものがある。それをいかに発揮するかという事が、自分がこの世の中に生きている間にやらなければならない最大の問題だとするならば、損得とか、人がどう思うかなんて、そんなつまらんことは考えられない。今日はどうするか、今どうするかという事で、無我夢中で働くという事にならざるを得ない。それはちょうど自分のところが火事になって一所懸命、一つでも多く荷物を持ち出そう思って無我夢中になっているという事と似ておる。ただそれ以上だ。

家財なんて言うのは、燃えたってまた稼げば出てくるけれども、自分自身に与えられた現在の時間というものは、経ってしまえば永遠に帰ってこない。だから人生の中で一番大切なのは時間だ。時間というのは、我々の命そのもの。だから時間を無駄にするという事は、自分の命を無駄にするという事に他ならない。その点では、仏教というのは、ものを考えるのも大事だし、感覚的に優れておることも大事だけれども、それよりも大事なのは一所懸命働くことだというのが仏教哲学の基本にある。一所懸命生きることが自分の人生そのものだ、という考え方を繰り返し繰り返し説かれておられる。

人生問題という事を考えていくと、この考え方がかなり大切だ、こういう考え方は最近の新聞や雑誌には殆ど載っていない。どうやったら得が出来るかとか、どうやったら人に褒められるかというようなことがいっぱい書いてある。本屋さんに行けばそういうことだらけで、とても全部は読んでいられないというほどたくさん書いてある。だけれども、そういうことで一所懸命やっても、時間の無駄になっちゃう。もっと大事なことは自分がどう生きなきゃならんか、どう生きるかという事に尽きるわけ。

これは損得というふうな問題よりも大事なこと。人が誉めてくれないとかという事よりもさらに大事なことです。釈尊は自分自身の人生をどうするかという事、その一番大切なことをしっかりおやんなさいというふうに言われた。仏教の教えというのはそれに尽きるという事が言えると思います。
                       つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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