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正法眼蔵 古鏡 27

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

前に述べた問答の中で、雪峰義存禅師が「鏡の前に鏡が現れた場合には、外国人も見えなくなるし、中国人も見えなくなる」と表現されたけれども、その言葉は「外国人も中国人も、明鏡(くもりのない鏡)が現れた時には、現れようがないと言う事を言われたのである。この中国人も外国人も現れようがないという言葉の意味は、一体どういう事であろうか。

外国人や中国人が鏡に映るという場合に、その外国人や中国人が映ったという事によって、鏡そのものがなくなったわけではない。鏡があればこそ中国人も映り、外国人も映ったのである。中国人や外国人でなしに、鏡そのものが出てきた時、鏡と鏡とが重なった時、自分自身が一つになったとき、自分自身が無我夢中で働いているときには、なぜ外国人も中国人も姿を見せなくなってしまうのであろうか。

古鏡(永遠の価値を持った鏡)の場合は、外国人が姿を現せば鏡に映るし、中国人が姿を現せば鏡に映るという事であるけれども、明鏡(くもりのない鏡)が現れたと言う事は事情が変わったのである。自分自身がたった一つのものになったと言う状態では、自分以外の外界の世界はすべて姿を隠す。ものを考えたりものを感じたりしている余裕はなくて、自分自身が一所懸命に働く状態が現実に出てくるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅というのは、思惟、考えることをやめよ、と言われますね。要するに頭を空っぽにするという事ですね

先生
そうすると、黒板を一所懸命ふくようなもんで、字を書いちゃいけないというような努力になるけれども、そういう事でもないんでね。逆に、さあ、火事だ!自分の荷物を一つでも多く持ち出そうといって一所懸命にやってるのが、坐禅と同じ境地だということも言えるね。つまり、ものを考えちゃいかんというようなことじゃなくて、「背骨がまっすぐになっているか」とか「寝ちゃいかんとか」「居眠りしちぁいかん、居眠りしちぁいかん」という風な事でもある、それが坐禅だ。これも坐禅というものの理解のためには、かなり大切なことだと思う、これも最近強く感ずるわけ。

その点では「三昧王三昧」の巻に「打坐を打坐と知るなし」という言葉がある。坐禅が坐禅だと言うことがわかっておる者がおらんという表現がある。坐禅は何らかの目的のためにやるものだという事ではなしに、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしていることだという事がわかっている人間がいないと言っておられる。そのことが坐禅というものを見ていく場合に大切なことで、自分の家が火事になったら、一所懸命荷物を持ち出すのは大変だということ以上に大変かもしれない。その点では現在自分が与えられた境遇に従って一所懸命生きるという事が、人生そのものだという事にもならざるを得ない。

ところが、割合こういう生き方をする人が少ないんで、大抵は、働くのは人様だと思って、横から眺めて「まあこの位やっていればいいだろう」とか「あんまり働き過ぎて、体を壊しちゃいかんから、一歩退いて」とか、あるいは「もう少し給料がほしいから一所懸命働いて」とか「月給が上がるように働くふりをして」とか、いろいろ複雑なわけ。だけどそういうつまらん立場でなしに、与えられた仕事を無我夢中でやるという立場、それがかなり大事だ、人間の生き方として。

これは損得の問題を乗り越えてる。損得というのを考えていると、自分の人生が損得の上にのった人生になってしまう。そうすると、自分の本当の人生の価値というものはどっかへ行ってしまう。自分の人生と損得というものとを置き換えてしまう。そうかと思うと、人がどう思うか、人が誉めてくれるかどうかという風な事を基準にして、それだけを夢中になって考えていると、やはり自分自身の人生というものはどっかへ行ってしまう。人がどう思っているか、という事だけが気になる。
              
                       つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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