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正法眼蔵 古鏡 26

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

玄沙師備禅師が「突然くもりのない鏡が、永遠の鏡の前に出現したらどうなりますか」と言う言葉で、縦横無尽に明鏡(くもりのない鏡)と古鏡(永遠の価値を持った鏡)を説明し、性と相というものを説明していると言う事を知るべきである。またその様子というものが、どこから眺めても、透き通っていて美しい状態である。その事は別の言葉で言うならば、人と人とが出会うという事は、その人が仏としてこの世に出現する事に他ならないし、人が仏としてこの世に現れたという事は、現れたという事だけで、人に対する教えを施す事が出来るという事にもなる。

そうしてみると、玄沙禅師が例にとられたところの、明鏡のくもりのないと言う事と、古鏡の時代を超えた価値と言うものとが、同じものだと考えたらいいのであろうか、別々のものと考えたらいいのであろうか。明鏡と古鏡との関係から言うならば、明鏡と言う言葉で譬えられた人間の心というものの中に、古(時間を越えた尊さ)が含まれているのかどうかと言う事を考えてみるべきであるし、古鏡の中にくもりの何でも見通すことのできる力というものが含まれているのかどうかという問題を考えてみるべきである。

古鏡と言う言葉を聞いたら、すぐそれが明鏡だと短絡的に理解してはならない。ここで古鏡とか明鏡と言っているが、所詮は自分自身が自分自身を管理できるかどうかと言う問題に帰着する。インドにおける仏教界の諸先輩も自分自身をしっかり掴んでいた。自分のやりたいと思う事をしっかりとやり、自分のやりたくないと思う事はやらないで済ます事が出来るかどうかと言う事が、仏道修行者の目的である。その境地に達するように、一日も早く努力すべきである。

仏教界の先輩方が言っておられる言葉に、「時代を超えて古くから我々が持つているところの素晴らしい価値というものも、やはり磨く必要がある、鍛錬する必要がある」と言われている。その点では、明鏡(くもりのない鏡)といえども、やはり磨かなければならないのであろうか。その点もよく研究してみる必要がある。まさにひろく仏教界の先輩方が言っておられる言葉を勉強してみる必要がある。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道の本筋を勉強していきますと、やっぱり一般社会にあんまり受け入れられない理解の仕方、行動を示すようなきらいがあるので、そういう事までよく自分で承知して行動しないと、うまく適用とか適合とかしなくなるきらいもあるんじゃないですか。

先生
いや、そういう事はないんですよ。というのはね、どんな人間社会でも宇宙の中の一部なんですよ。ですから宇宙の原則がわかっておると、どんな人間社会のどんなつまらない動きも全部読めるんですよ。仏道を勉強することの意味の一つはこれなんです。人間が我利我利の立場で金儲けに血道を上げていても、仏道が身についていると、それらの人々がどんな原則で動いているかが見え見えに見えるんですよ。それが仏道の意味なんです。

だからそういう点では、仏道の立場を基準にして日常生活を生きていけば、自分の意思を主張しながら人とぶつからないという境地があるんです。これは非常に狭い幅の動きですけれども、そういう厳密な非常に狭い範囲の動きをするためにやるのが仏道修行なんです。自分の意思を通しておきながら、周囲と摩擦を起こさないというのが仏道ですよ。それを狙わないと仏道修行の意味がないと、こういう事があると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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