トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 古鏡 25

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

玄沙師備禅師が「古鏡(輝いている鏡)の前に、もう一枚の明鏡(くもりのない鏡)が出て来たならば、一体どういうことになるか」という質問をした。

※西嶋先生解説
――この鏡の前に鏡が出てくるというのは、普段は二つに分かれている自分が、一つになった状態、つまり自分自身が一つになって、やりたいと思うことが出来るようになり、やりたくないと思うことがやらないで済むことが出来るようになった状態を、明鏡という言葉で表現している。「そういう状態になったときは、一体どうなりますか」。――

この玄沙師備禅師の言葉というものを十分に勉強してみる必要がある。ここで明(くもりのない)と言う言葉を使っているけれども、その「くもりのない」という言葉の内容はどの程度に考えたらいいのか。その鏡の前に鏡が来るという事の意味は、前の例で、外国人が鏡の前に現れるとか、中国人が鏡に前に現れるという説明があったけれども、それとは別だという事を知らなければならない。ここで言っているのは、くもりのない鏡という事である。自分自身がたった一人でどんな状態にあるかという問題であるから、自分以外の者が現れるとかと言う問題ではない。

この場合、鏡の前にもう一枚の鏡が出てきたと言っているけれども、古鏡(永遠の価値を持った鏡)と明鏡(くもりのない鏡)と、鏡が二枚があると考えるべきではない。

※西嶋先生解説
――自分自身が統一されるという事、つまり自分自身が一つになって、やりたいと思うことが出来るようになり、やりたくないと思うことがやらないで済むことが出来るようになった状態というものは、自分が二人いて、それがお互いに善だ悪だといって争っている状態ではないから、鏡が二枚あると考えるべきではない。――

このように鏡は二枚ではないと考えるべきではあるけれども、時代を経た古鏡は、我々として現に目の前にある。またそ明鏡というものも、現に具体的なものとして、我々としてこの現実の世界に存在している。我々人間というものを鏡に例えた場合に、古鏡もあり、明鏡もあると言う事の証拠は、雪峰義存禅師と玄沙師備禅師とが交わされた問答によって知る事が出来る。古鏡と明鏡と言う言葉で二つのものがあると言っているのではない。本質と外見と、そういう形で、結局は一つのものだけれども、別々に分けて考える事も出来るとそういう立場で理解するべきである。



               ―西嶋先生の話―

「古鏡」は本質(中身)と言う言葉に該当すると見てもいい。「明鏡」は外見(うわべ)と言う言葉に該当すると見てもいい。中身と外見は使い分ける事が出来ると普通は考えておるけれども、仏教では、中身とうわべと全く同じものだという考え方をとる。これはふつう世間で行われている考え方と違う。

腹の中ではどう思っていても、丁寧な言葉を使っておれば、世の中は通ると大抵の人は思っている。だから腹の中でどんなことを考えていようとも、世間並みに、とにかく人に嫌われないように、言葉を使い、表情をしておれば、世の中は通る、この世の中は甘いもんだという考え方もある。ところが案外世の中というのは甘くない。人の腹の中で考えている事というのは、いつか分かってしまう。なぜわかってしまうかというと、外側と内側とは一つのものだというのが現実であるから、仏教思想ではそのことを主張するわけであります。

中身というものと外見というものは使い分けることが出来ると普通は考えておるけれども、仏教思想ではそう考えない。どうしても中身と外側とは一つのものだから、いつかはすべて出てしまう、わかってしまう。外側だけを見場がいいようにしておけば何とかなるという事が中々通らない。そのことに関して、性と相が一致している「性相不二」という言葉がある。これは仏教的な考え方の一つの非常に基本的な考え方である。

人によっては、身なりというものを非常にきれいにする人もいる。それじゃ身なりのいい人は中身がいいかというと中身に自信がないと、身なりをよくしようとする人も割合いる。だから、あんまり身なりがよすぎると「これは中身はどうかな」と思って、逆に心配になってくるという風な問題もあるわけです。まあそういうことは余談でありますが・・・。


いつも訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。



       
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-