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正法眼蔵 古鏡 24

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

雪峰義存禅師が「外国人が鏡の前に来ると、鏡の中に外国人の姿が現れ、中国人が鏡の前に来ると中国人の姿が現れる」という表現で鏡というものを説明されたけれども、そのことは、新羅の国の人が来たならば、新羅の国の人の姿が映るという事でもあろうし、日本人が来たならば、日本人の姿が映るという事でもあろう。天人が現れたならば、天人の姿が映るという事でもあろうし、人が来たならば、人がその姿を現すという事に他ならないであろう。

そして「姿を現す」とか「来る」とかという言葉を、いま述べたように学ぶという事をした場合に、この現れるという事は、どちらが中心でどちらが仮だという考え方で「現」という言葉を理解する立場ではない。この現れるという現実そのものにありのままに出会うという事が、この古鏡(永遠の価値のある鏡)という事の意味でもある。つまり頭で考えて外界の様々のものを理解するという事ではなくて、直観的に映ずるものが判断の本質的な基礎である。

※西嶋先生解説
――我々は頭でものを考えると、人が姿を現したとか、人によって見られたとかという考え方が当然出てくる。頭でものを考える立場というものは、すべてがこうだ。だから西洋哲学の考え方というのは、常にこういう考え方をするわけだけれども、現実というものを本当にありのままにとらえようとすると、どっちが中心で、どっちが仮というふうな、二つに分けた見方をしないという事が必要になってくる。その点では、現実というものが目の前にあるという捉え方にならざるを得ない。――

現に雪峰禅師が述べた趣旨というのは、「外国人が来た」と言うことは、「外国人が映った」と同一だと言うのであろうか。いや、「外国人が来た」ということは、「外国人が来た」ということ以外の何物でもないのであり、「外国人が映った」ということは、「外国人が映った」という事以外の何物でもないのであろう。すなわち映るという事が目的で、来るという事はその過程だと言うような関係ではないのである。ここで長々と鏡というものを素材にして、我々の心の働き、あるいは外界の捉え方を述べてきたけれども、この古鏡(永遠の意味を持った鏡)に関連しては、このような学び方がなければならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
テキストから離れての質問になりますが、自分の勤めていた会社が他の大きな会社に吸収されたとしますね。とりあえず給料はもらえるから心配はないし路頭に迷う事もないけれども、新しく配属された会社では自分はよそものだから「あいつはよそ者じゃないか」と言う白い眼に一生さらされながら定年を迎えないといけないのかと考えますと、やっぱり「俺の人生は終わりだ」と思う人はいっぱいいると思うのですが・・・。
    
先生
だからそこでね、たまたま自分が潰れた方の会社に所属していた。そうすると「もうこれは冷や飯を食っても仕方がないな」と覚悟すべきですよ。世の中とはそういうもんなんだから。吸収された会社の社員を、吸収した会社の社員と同じ様に扱うと言う事は、今日の日本社会にはないですよ。特別の事情がない限り。

吸収された方は「俺はこの会社では一生冷や飯だな、立派に冷や飯の生活を送ろう」と腹を決めるか、そんな冷や飯は嫌だから、その会社を出て行くという決断をするか、各人がどうにでも動けるんですよ。だけど、冷や飯を食わせるのは会社がよくないなどと言う考え方は成立しない。平等に扱ってくれて当たり前だ、などと言う考え方は社会では成立しないと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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