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正法眼蔵 古鏡 22

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

人やモノが現れたり去ったりする様子を観察してみると、ある人が出て来た、またいつの間にか去って行ったというふうな原則では割り切れないところの様々の事象は、人間を鏡として物事を考える場合、様々な事象そのものが人間を基準にして天下を治めたという考え方の基礎をなすものである。

すなわち、人には賢人もあれば愚人もある。それは星に様々の星があるように千差万別である。それは、空がある、地がある、人がいる、海がある、山があるというふうな、この世の様々の成り立ちとまったく同じであろう。それは我々の目の前に展開されている、現実のありのままの様々な人の姿であり、鏡の姿であり、太陽の姿であり、月の姿である。

また中国には、泰山・崋山・霍山・恒山・嵩山と言われている有名な山がある。長江・黄河・淮水・済水と言われている有名な川がある。そのような五つの山、四つの川という自然の姿そのものも、長年にわたってありのままの姿を示し、それによって天下が治まり、この我々の住んでいる世界が静かに我々の周囲に展開しているのである。そしてそれは、我々の体や心にありのままに映る世界そのものである。

人間がどういうものかという事を勉強して、それによって宇宙がどんな様子をしているかという事を推察することが、太宗が人を基準にして政治を行ったという言葉の意味である。様々の人に関する知識から、いたずらに見聞の広い人を基準に選ぶと言う事ではないのである。



               ―西嶋先生の話―

先日来からやっておるこの「古鏡」の巻という大変難しい巻も、結局は、自分自身の頭のハエを追えるという状態はどういうことかという事が述べられていると考えて間違いないわけであります。

我々の体、あるいは心というものを鏡に譬えて、それに映る姿がどんな風なものかという事が論じてあるわけでありますが、鏡を前にして、外国人が出てくると外国人の姿が映る、あるいは中国人が出てくると中国人の姿が映るというところまではごく常識的に分かりやすい。ところがそのあと「鏡の前に鏡が出てきたらどうなりますか」という質問になると、何のことを言っているのかよくわからないという恐れがある。

この「鏡の前に鏡が出てきたらどうなりますか」というのが、「自分の頭のハエを追えるようになった時にはどうなりますか」という事に他ならない。つまり、鏡というものが外の何かを映すという状態であるときには、常識の世界で判断できるわけでありますが、自分自身の頭のハエが追えるようになったという事、自分がしっかりと自分をつかまえて、それをどこに持って行くかが出来るようになったという事が仏道のねらいであり、そういう境地になった時には、一体鏡がどうなるかという問題がここに説かれておる問題という事にもなるわけであります。

だから、仏教の考え方というのは、大変難しいようでありますが、その基本は日常生活において自分が何がやれるかという事を常に問題にして、それを繰り返し繰り返し何回も説明するという事が仏教の立場であり、またこの「正法眼蔵」という本の立場だと、そういう事にもなろうかと思うわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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