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正法眼蔵 古鏡 21

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

かつては、この三つの鏡――天・地・人を基準にして天下を治め、政治を行い、また社会の基準とした。そして、この宇宙の基準というものに対してはっきりした理解を持っている者が、国王・皇帝という地位に就いた。俗(世間)では、「唐の太宗は天・地・人のうちの人を鏡として、天下が安らかであるか危ないか、天下が治まっているか乱れているかという問題については、事実がどうなっているかという事を知った」と言われいる。

太宗は天・地・人と言う三つの鏡のうちの一つ、人と言う鏡を使って天下を治めたという事ができる。人を鏡として天下を治めたと言う話を聞いた場合、たくさんの知識を持っている人に昔からの様々の出来事に関連して質問したならば、どういう人を用い、どういう人を捨てたらいいかという事の区別も自然にわかってこよう。それはたとえば太宗が臣下として魏徴や房玄齢と言う優れた人を得た場合であると考える。しかしながら太宗が人を鏡として政治を行ったと言う事は、魏徴や房玄齢を見つけ出したという事を言っているのではない。そういう理解の仕方をすれば、太宗が人を鏡にし人を基準にして、天下を治めたという理論には該当しない。

では、人を鏡とするというのはどういう事かと言うと、鏡は鏡としてそのまま使うと言う事に他ならない。自分自身を鏡に使って、それに映じた姿で政治を行ったと言うに過ぎない。その点では、過去における色々な出来事を基準にして人を選んだと言う事ではなくて、自分自身の心を治めて、自分自身の体を治めて、その正しくされた体、正しくされた心を基準にして、政治を行ったというに過ぎない。それは、「五行」を鏡と知る事でもあり「五常」を鏡にすることでもある。

※西嶋先生解説
「五行」というのは、これもやはり中国の哲学の中に出てくるもので、中国では物質的な要素というものを、木・火・土・金・水と言う要素に分けて問題を考えた。だからこの五行というのは、我々の住んでいる物質的な世界すべてを五行と言う。「五常」というのは、中国における基本的な五つの道徳、仁・義・礼・智・信




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「古鏡」を見ますと、我々の妄想分裂を離れて、外界をありのままに直観的に見る存在として、鏡をたとえているんですけれども、そうしますと、そこでは現実の絶体肯定のようなことが感じられるんですが、どうも僕は仏教というのは、否定を通しての肯定、無分別の分別、真空夢想から真空妙有の転換がなければならないと思っているんですが、そこのところがどうも感じられずに、否定を通しての肯定ではなくて、いきなり肯定というふうに思われるんですが、そこはいかがでしょうか。

先生
頭の中で考えると、否定とか肯定とかというものが大いに活躍するわけです。ただ、頭の中での解釈で解決がつかなかったから、釈尊は坐禅をやられて、否定も肯定も乗り越えてしまった。それが釈尊の教えの基本だと思います。だから坐禅を何のためにやるかというと、否定とか肯定とかという頭の中で考えたものを乗り越えるためにやる。頭の中で考えた世界では、否定とか肯定とかという事がありますけれども、それを乗り越えた状態が仏道だとみていいと思います。

質問
では、鏡に自分を置いた場合に、大鑑慧能禅師の言葉「鏡そのものには本来何物もその持ち物というものはない、どうして塵や埃がつくはずがあろう」と言われたところに自己を持って行った場合に、そこから果たして、歴史的社会における実在としての自己を、どのように対処していくべきなんでしょうか。

先生
それは、日常生活をそのまま真っすぐ生きるという事に尽きると思います。

質問
先生も若い頃は悟ってやろうというお気持ちがあったけれども、今の心境としてジッと坐ってる、ありのままの状態でいいんだという確信をお持ちになったとおっしゃっていますが、そのことを「自覚」でもいいし、「わかった」と言ってもいいと思うんですが、私は「悟り」という言葉を使ってもいいんじゃないかと思うんですけど、いかがなものでしょうか。

先生
その辺は言葉の使い方の問題だからね。あなたが言われたような意味に解して間違いではないと思います。

質問    
言葉の遊びみたいになって恐縮ですが、「結果論」という言葉がありますが、仏道というのはやはりその結果論ですか。

先生  
いや、結果論じゃないね。結果論というのは後からの説明でね。仏道は結果論をやっているほど我々の人生はのんきじゃないという思想ですよ。結果論ぐらいのんきな思想はないんでね。後からでてきて「やあ、やっぱり俺の考えた通りだった」というようなことを言うわけだけどね。人生というのは、そんなのんきなものじゃないです。今何をやらなきゃならんかという事で、年中追いかけまわされているわけだからね。結果が出てから「さて自分の考えを述べます」じゃ、間に合わないわけでね。だから仏道というのは結果論じゃないです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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