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正法眼蔵 古鏡 20

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

黄帝が恭しく峒崆山に参り、広成子に「真実の道とは何か」と質問した

広成子、答えて言う。
鏡は我々が住んでいる世界の一切の根源であって、この鏡によって自分を治めると言う事が非常に長く昔から行われてきた。その鏡にも三種類の鏡がある。三種類の鏡とは天と地と人である。これらの鏡というものは、モノを見たり、モノを聞いたりする必要はない。気持ちを静かにしていると、その鏡に映る姿というものも自然に正しくなってくる。気持ちがそのように静かであって、汚れがないという状態であるならば、体を労することがない。そして精神を動揺させるという事がないならば、長生きをする事が出来るであろう。

※西嶋先生解説
この点では、人間の健康というものと関係あるわけで、人間の体が長生きするかしないかという風なことは、一つの譬えとしては、蝋燭というものが譬えとしてとれると思う。最近は蝋燭をあまり使わなくなったから、見かけることも少なくなったけれども、蝋の棒の真ん中に芯を入れてそこに火をつけると炎が出てずっと燃え続けているというもので、お寺などでは時々見かける。この蝋燭というものは、芯が燃えることによって、蝋が溶けて、それが熱せられて炎を出すという形であるわけだけど、蝋というものが、ちょうど周りが少し高くなって、真ん中が溶けている間は蝋燭は比較的長く持つ。ところが脇で少し堤が切れていて、蝋がダラダラと外に流れると、普通にもつ蝋燭が半分、三分の一の時間でたってしまう。

人間の命と言うものも、ちゃんとバランスして普通に燃えておれば長持ちする。ところがバランスが壊れておると、せかせか、せかせか一所懸命駆けずり廻るけれども、エネルギ-を無駄に使って早く終わりが来るということもありがちである。そういう点では、体を長持ちさせるというのは、気持ちが落ち着いておる、体が落ち着いておるという事と非常に関係がある。



               ―西嶋先生の話―
                            --つづき

なぜ我々は仏教を勉強するか?
坐禅は億劫だからと言って、あまりやる人はいない。たいていは目先、目先で生きていこうとする。ほんのわずかの楽しみを見出して、それで満足する場合が多い。赤ちょうちんで飲んでいる時は、実に楽しい。「やあ、これが人生だ」と思う。ところが翌朝になってみると辛くてしょうがない。「いやぁ、ちょっと飲み過ぎたかなあ」「まあ会社に行かなきゃならないから、とにかく行こう」と言う様な事で、無理に無理を重ねて出かけていく。午前中ぐらいは、仕事が手に付かないという事はいくらでもあり得る。
  
自分に与えられた人生の時間というものは、どんどん、どんどん経って行くわけです。しかし、自分に与えられた時間をどう過ごすかという事は各人の自由です。アルコ-ルでちょっと気分を緩めて、何時間かを過ごしてしまうのも自分自身の自由。そんな事よりは、もう少し気の利いた事をやろうと自分自身の時間を別の事でつぶすという事も自分自身の自由。どんな生き方をするかという事は、自分自身の責任においてどうにでもやれる事。ただ、本当に自分自身が何をやりたいかと言う事、これは自分自身をつかまないと中々わからない。

釈尊は、自分自身というものをつかむ事を非常に大切に考えられた。そして、この自分自身というものをつかむ事を、我々に勧められた訳です。その自分自身というものをつかむ事の一つの修行法として、古来から説かれているものが「坐禅」という事になるわけです。坐禅というものを、一つの拠り所として人生問題を見直していくと言う事、それが仏道です。「まあ、そんなややっこしい事は止めておきましょう、どうでもいいです」と言う人も勿論あるし、世間の人は大体そういう考え方をしている。

だから、坐禅をやっているなんて言うと、「ああ、ちょっと変わり者だな」とか、「まあ、あんまり付き合わないほうがいいや」と言う様な事になりがちですけれども、各人が自分自身の人生を持っているわけです。どういう生き方をしたらいいかという事については、かなり重大問題がそれぞれの中に潜んでいるわけです。そういうことから眼を覆って「まあ適当に行きましょう」とか、「ま、時間がたてば」とか考えている人もいれば、どうもそういう点を少し詰めて見たいと言う人もいる。詰めてみたいという人にとっては、やはり仏道の勉強が大切になってくる。そういう事になろうかと思う。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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