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正法眼蔵 古鏡 19

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

古代中国の時代にいたと想像される黄帝が中国を支配していた時代に、十二枚の鏡があった。家代々の教えとして伝わったところによると、天から授かったものであるという言い伝えがあった。また別の説として艇崆峒広成子(崆峒山の石室中に隠居していた聖人)が黄帝に授けたものとも言われている。

なぜ十二枚の鏡があったかというと、一日が12時間(今日の24時間)に分かれていることに関係があるように思われる。また一年(十二か月)と十二枚の鏡とが見合っているようにも思われる。また年月が十二年経つと、それに対して十二枚の鏡がそれぞれ該当するということも考えられる。昔から言われている事として、人の姿を映す鏡は聖人広成子にとってもその教えの根源であった。つまり自分の姿がどういうものかということがわかる事によって、自分がどうしたらいいかという事もわかってくると言う事とも関係していて、広成子が何をしたらいいかという基準として鏡を使ったと言われている。

広成子はその鏡を黄帝に与えたのであるけれども、我々の住んでいるところの一日24時間というものも、鏡と同じような基準として考えられる。そしてこの鏡というものを基準にして、昔がどうであったかということを勉強して、今どうしなければならないかということを検討する場合に鏡が重要な役割をしている。そして24時間というものが、我々の姿を映す鏡と同じような形のものでないならば、どうして過去を反省し過去を振り返るということが出来よう。そしてまた同じように24時間というものが、一つ一つ姿を示すということがないならば、どうして我々は現在というものを反省することが出来よう。

いわゆる24時間というものが二十四枚の鏡があると考えても差し支えないし、過去から現在にわたる永遠の時間というものも、それは結局24時間の積み重ねでしかない。一日一日の積み重ねに過ぎない。黄帝の十二枚の鏡とは、この基本理念を示しているのである。そしてこの十二枚の鏡に関する説話は、仏教以外の人々の語るところである。この鏡と時間とが関連して考えられていると言う事は、雪峰禅師と玄沙禅師との問答で「中国人が鏡の前に来ると中国人の姿が現れる」と言う形の説明と同じである。このことは、時間の中における出来事と言う点では、仏教以外の人々であろうと仏道であろうと変わりがないという関係に立っている。



               ―西嶋先生の話―
                             --つづき
なぜ我々は仏教を勉強するか?
姿勢を正してジ-ッと坐っている時に、何が出てくるかと言うと自分自身が出てくる。いろんな余分な事は考えないでもよろしい。特別な音を聞かなくてもよろしい。特別な色を見なくてもよろしい。考える事、感じる事、その両方から開放されると自分自身というものが出てくる。だから坐禅は、いろんな考え方やいろんな感覚から脱け出す事が狙いです。そういう二つのモノから脱け出すと自分自身が出てくる。どこに出てくるかと言うと、自分自身の体や心の中に自分自身というものが出てくる。そういう形で自分自身と仲良くなってくると、自分自身のおかれた周囲の世界というものがわかってくる。

これは、理屈でわかるのではない。それは、実感として、直感として、我々はどういう世界に住んでいるかと言う事も自然に滲み出てくる。そういう体験を通して人生を見直すと言うのが仏道です。坐禅という修行法は、そう難しい修行法ではない。しかし、そうやさしい修行法でもない。ただ、このやさしくもない難しくもない修行法を毎日続けていくと言う事が、自分自身を見直し、世界を見直し、自分の生活を見直し、人生を見直すと言う事につながる。

そういう生活をする事によって、迷いから離れる事が出来る。そういう生活をする事によって、執着から離れる事が出来る。迷いから離れ、執着から離れ得たならば、人間は自分自身の最高の人生を送り得る。これが釈尊の教えである。仏道によって自分自身から離れるのではなくて、本当の自分自身を見つけ出して、その自分自身の生活を自由自在に送ると言う事が仏道。だから、仏道というのは堅苦しい事ではない。坐禅をすると言う事は、自分自身の人生を楽しくすると言う事になる。自分自身の人生を楽しくする最大の道と言えます。
                         つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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