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正法眼蔵 古鏡 18

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答について道元禅師が注釈されます。

ここで雪峰禅師が言われている「現実は主観と客観との絡み合いである」とは、「言葉で表現する事のできない何かである」と学ぶべきである。そこで取り敢えず、雪峰禅師が説かれた古鏡(永遠の価値を持った鏡)について学んでみよう。「一つの古境と見立てて考えることが出来る」と言われた「一つ」とは、辺涯が永久になくなって、内と外の区別が全くなくなった状態を言うのである。すなわち、一粒の真珠が平らな鉢の中を走り廻る様に、行いの世界で自由自在に行動する自分自身を言うのである。

また「外国人が姿を現せば、外国人の姿が映る」とは、外国人と鏡との関係だけではなしに、具体的な一人の外国人そのものを指すのである。また「中国人が鏡の前に来ると中国人の姿が現れる」と言っている場合、この中国人とは天地開闢時の混沌から盤古が現れ、天・地・人が出現し、木・火・土・金・水・が出来上がって以来のものを指すのであるが、いま雪峰禅師の言われる中国人とは、「古鏡」の性質として、中国人が現れたと言うのである。つまり現在の瞬間に現れている中国人は、言葉として捉えた中国人とは別のものであるから、現に中国人が目の前に現れたというのである。さらに「外国人も見えなくなるし、中国人も見えなくなる」とは、鏡自身がその姿を隠してしまうと言う意味であろう。

なお玄沙禅師の「すべての事物が一切バラバラに砕け落ちます」という言葉は、言葉で表現すればこのような言葉になるかもしれないが、さらに問答を詰めていうならば、「お前さんに対して、そのバラバラになった事物というものを自分に戻してくれ」と言う主張もできるし、「自分は、個々の具体的な事物そのものを見せてくれと質問したのであるが、お前さんはどうして輝かしい鏡を返してきたのか」と玄沙禅師に対して問いかける事も出来る。

※西嶋先生解説
ここのところも非常に難しいところでありますけれども、この「古境」の巻で言っておることは、鏡を題材にして、主観とその主観に映るところの客観との相互関係を、何回も繰り返しながら、様々の角度から眺めているということが言えるわけです。その点では、非常に難しいと同時に、仏教哲学の基本には、こういう主観と客観との相互関係を詰めていくという問題が必ずある。仏教を勉強する以上、どうしてもと通らなければならない一つの関門だということも言えようかと思うわけであります。



               ―西嶋先生の話―
                           --つづき
なぜ我々は仏教を勉強するか?
釈尊が人生問題を勉強する場合に、邪魔になる二つのものを説かれた。一つには「ものを考える事」二つには「執着を離れる事」人間の働きの中には、モノを考える働き、モノを感じると言う非常に大切な働きがある。おいしい物を食べる、肌触りのいい着物をきる、いい絵を観る、音楽を聴くとか、ものを感じると言う働きがある。これは人間がモノを考える働きとは別の働きです。だから、ものを考えている時には、感覚的なものは留守になるわけです。その反面、テレビを一所懸命見ていると、その事だけに夢中になって、同時に本を読むという訳にはいかない。

したがって、モノを考える働きとモノを感じる働きとは人間にとって非常に大切な働きです。だから「モノを感じる働き」も大切な働きであるけれども、感覚的なモノに溺れてしまうとやはり人生を見失うと言う面がある。早い話が、我々の生活には酒というものがある。「酒は百薬の長」という事で、大いに健康にもいいとされてはいる。しかし、毎日毎日飲んで飲みすぎると体全体が狂ってくる。飲まなければいいんだけれども、いわゆるアルコ-ル中毒になるとどうしても飲まずにはいられない。年柄年中、夜疲れた時にちょっと飲むくらいならまだしも、朝から飲んでいると言う人もいる。

そういう人を端から見れば、やめればいいのにと思う。しかし、本人にしてみたら、どうしても止められないというのが実情。そういうことはいくらでもあるわけです。我々の人生のほとんどすべてが、執着に取り付かれている。逃げ回っても、逃げ回っても逃げ切れないで終わってしまうと言う場合が非常に多い。感覚的なものに囚われている事もやはり人生問題がややこしくなっていく原因。釈尊は、この人生に対する問題の解決方法を、いろいろな面から説かれた。

二つのつまづきの石は「迷い」と「執着」です。この「迷いと執着」を離れる事が出来るか、出来ないかが人生問題の解決が出来るか出来ないか、の大切な分かれ目という事を言われた。そういう点では、人生問題を解決するにはどうしたらいいかと言う事が釈尊ご自身の大きな悩みでもあった。若い時から沢山の勉強をされ、努力をなされた結果、気づかれたのが坐禅。釈尊は、だから我々に対して坐禅を勧められたのです。

                              つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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