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正法眼蔵 古鏡 17

雪峰義存禅師が、ある時たくさんの僧に示して言う。「現実は主観と客観との絡み合いであるけれども、この主観と客観との絡み合いが一体どういうものかということを理解したいと思うならば、自分の現在の境地を、一つの「永遠の意味を持った鏡」と見立てて考える事が出来る。なぜ鏡に見立てる事が出来るかと言うと、外国人が鏡の前に来ると、鏡の中に外国人の姿が現れ、中国人が鏡の前に来ると中国人の姿が現れる。この様に我々の境地とは、ちょうど鏡の様にその前に来た客観の事物に応じてそれなりの姿を映す。これが主観と客観との関係である」

その時玄沙師備禅師、前に進み出て質問する。「その輝いている鏡の前に、もう一枚の鏡が出てきたならば、一体どういうことになりますか」

雪峰義存禅師言う。「その場合には、外国人も見えなくなるし、中国人も見えなくなる」

ところが玄沙師備禅師言う。「自分はそういう表現はいたしません」

そこで雪峰義存禅師言う。「お前の場合は、一体どういう返事をするのか」

玄沙師備禅師言う。「それでは和尚にお願いしたい、同じ質問を私にしてください」

雪峰義存禅師言う。「その輝いている鏡の前に、もう一枚の鏡が出て来たならば、一体どういうことになるか」

玄沙師備禅師言う。「一切の事物が、個々にバラバラに砕けてしまいます」と。



               ―西嶋先生の話―              
                        --つづき

なぜ我々は仏教を勉強するか?
釈尊は、人生問題はものを考える事だけでは解決がつかないと言われた。ところが普通はそうは考えない。あの本には、いい事が書いてあるそうだから読んでみようと。そして読んでみると、なるほどいい事が書いてある。「よし、これだ。人生はこれだ!これで行くんだ」と言う事で、10日か20日も経つと、その事はすっかり忘れてしまう。また別の場合には、正しいと思って一所懸命やっているとどうも現実に合わない。正しいはずだけれども、結果がよくないと言う事はいくらでもある。

その事は、ものを考える事から生まれて来る限界、思想というものの持っている限界があると言う事が現実にあるわけです。普通はその事に気がつかないから、あの考え、この考えという事で、沢山の本を読んで回って一所懸命に色々な知識を蓄えるわけだけれども、考え方が頭の中に詰まれば詰まるほど悩みが増えてくる。人生問題は益々わからなくなって来るというのが実情。
  
釈尊は、思想が人生問題の解決にならないと言われた。その事を仏教では昔から迷いとか惑いとか言う。今日では「迷惑」と言う言葉は仏教で使った意味と別の意味に使われている。これは思想が間違っていると言う事。ものの考え方が間違っていると言う事。間違った考え方で生きた場合に、人生に幸福はありえないというのが釈尊の教えです。だから、迷いというものから離れる事。誤った考え方から離れると言う事が釈尊の教えです。 それからもう一つ、我々の人生の道を誤らせる問題があるわけです。それは執着です。
                      
                    つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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ブログ名を「坐禅と暮らし」から 「正法眼蔵=坐禅」に変えました。

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