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正法眼蔵 古境 16

南嶽懐譲禅師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

もし海が涸れてしまうならば海の底が出てくると常識的には考えられる。しかし、仏教的な立場から考えるならば、海が涸れてしまったと言う事は、海がなくなった事であり、底もないという事になる。そういう理論を勉強してみるべきである。我々が住んでいる現実の世界というものは、ぶち壊していいような何物もないし、自分自身がその現実の世界に大いに刺激されて、動揺を起こすということも避けなければならないのである。

※西嶋先生解説
――「俺が俺が!」ということで、客観的世界を何でも自分の意志通りに切り替えることが出来ると思ってみても、どうにもならない現実というものがあり得るし、そうかといって、どうにもならない現実だけに怯えて逃げ回る、動揺して動揺が止まらんということがあってもならない。――

我々のとるべき態度としては、現実そのものを素直に受け入れて、それを無理に変えるという態度もなければ、また外界のものに怯えることもないということがあるべき状態であるけれども、さらに勉強するならば、先の問答では、「鏡を鋳返して像を造る」という事を言われていたけれども、金属で出来た像を鋳返して鏡を造ると言う逆の理論もあると言う事を勉強すべきである。

このような瞬間においては、心というものを通じて外界の事物が百千万と無数にあるものを、しっかりと心の中にとらえると同時に、逆にその百千万という具体的な事物は、それぞれ独自の存在を示しているのであるから、我々に対して様々な形で我々の心をくらますような複雑な存在であるし、個々の事物がそれぞれ独立した存在である。



          ―西嶋先生の話―

なぜ我々は仏教を勉強するか?  
仏教を勉強すると言う事は、特別の事ではない。我々の人生の中で、一番単純な一番眼の前にあるものが何かという事を勉強すると言う事に他ならないわけです。自分の身近にあるもの、目の前にあるもの、それは何かと言うと一つの例を挙げてみれば自分自身です。自分とは何かと考えてみるとわかった様でわからない。「オギャ-」と生まれてから何十年と経っているわけですが、自分というものは何かと考えてみるとサッパリ見当がつかない。

腹がすくからご飯を食べる。眠くなるから眠る。一晩寝るとまた起きて、またご飯を食べて、会社に出かけて仕事をしてと言う事でセッセと毎日やっているけれども、自分自身とは一体何か?何のためにやっているのか?という事になると中々わからない。それから自分自身がわからないだけではなしに、自分の住んでいる世界もよくわからない。丸い玉の上に住んでいる。そういう玉自身も我々の立場から見ると、途轍もなくどえらい大きなものの様に感じる。そういう大きな玉が無数に飛び交っている世界に我々は生きている。ただ実感としては「そんなもんかなあ?」と思うだけで中々わかったと言うわけにはいかない。

日常生活にしても同じで、小さい時にいたずらをして大いに遊んだ。学校へ行って色々な事を教わって、社会に出て一所懸命働くけれども、何のためにそういう努力をして数十年たったら「はい、さようなら」と言う事になるかと言うと、どうもそういう実体と言うモノはよくわからない。我々の人生そのものが一体どういうものなのかという事がよくわからない。

仏道とはそういうものを勉強する。自分とはなにか? 世界とはなにか?自分たちの人生とはなにか?自分たちの生活とはなにか?と言う様な、ごく身近なごく当たり前の事が、「何か」という事を勉強するのが仏道と言う事になろうかと思います。

                         つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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