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正法眼蔵 古鏡 15

南嶽懐譲禅師と僧の問答について、道元禅師が注釈されます。

我々の周囲を取り巻いている様々の姿・形というものは、一体これが何だということはなかなか決めにくいけれども、その根源をたずねてみると、鏡――我々の体や心というものを通して見られ、つくられたものだという証というものが、この南嶽懐譲禅師の言葉によってはっきりと知ることが出来る。鏡というものは、それが単に金属ともいえないし宝玉ともいえない。また鏡というものはいつも光が輝いているものとは限らない。また、鏡を鋳返して何らかの別の姿にすることも常に行われるわけではないけれども、しかしそれが金属である以上、鏡を造り変えて他の像を造る事も出来る。この様な考え方は、鏡というもの、我々の持っている主観と客観というものを、いろいろな角度から検討してみる場合には、確かに一つの非常に優れた検討の方法である。

この僧侶が質問した「鏡(の素材である金属)を鋳直して像を造った場合、(鏡のぴかぴかとした)光はいったいどこに行ってしまうのですか」という質問は「鏡(の素材である金属)を鋳直して像を造った場合」という言葉が、「鏡(の素材である金属)を鋳直して像を造った場合」ということを意味すると、文字通りに解すべきである。そのことは、鏡から鋳返して造られた像は実体としてある。以前に鏡であったと言うことは過去の事である。現在を基準にするならば、像以外の何物でもない。素材である金属、それが鏡の時は鏡としての役をしているけれども、それを今度は鋳返して他の物を造るという事は、逆に他の像を鋳返して鏡を造るという事と実体的には何の変わりもないということに他ならない。

この弟子に対して禅師の「お前さんがまだ出家していなかった時分の姿・顔形というものは、出家して頭を丸めて以降は一体どこに行ってしまったのか」という言葉は、人間は誰でも、体や心と言う鏡をもって行動しているという事を言われたものである。この様な鏡をもって行動する場合には、人それぞれ自分の顔がある様ではあるけれども、それと同時に鏡と言う様な客観的な誰にでも共通なものをもって行動するのであるから、それぞれの体・心・顔形が、個々の人々の体・心・顔形だと言う事にはならない。人間としての共通の主観・客観をもって行動する、と言うふうに見ざるを得ない面がある。

また禅師が「確かに像を造った場合には、鏡として何も映す事はないけれども、像は像としての現実としてはっきりそこにあるのであり、人を騙しそれを見る者の眼をくらませるという事はまったくない」と言われていることは、像は像としての実体を示しているのであって、鏡のような形で物を映すという事はないけれども、それだけに像としての実体は具えていて、他の眼をくらますという事もないのである。

※西嶋先生解説
――ここでは、鏡は鏡としての実体であり、像は像としての実体であるから、その場その場において、具体的な事物というものには絶対の存在価値があって、その両者の間に鏡が像に変わったと言う捉え方、考え方はしないでよろしいという思想が説かれているのである。――



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
接客、商売やなんかで客に接します場合に、まあサービスもそうですが、相手の気持ちになってみるとか、立場を反対にしてみると言うような考え方は、やはり仏道に通じるものですか。

先生
ええ、そういうことが言えると思います。つまり馬車馬みたいになって、人の事情はさっぱり分からないで、お客さんと対応しても、うまくいかないということが言えると思います。人間というのはどっちかに片寄りがちなんでしてね。つまり、自分の事ばかりペラペラしゃべって、相手にさっぱりものをしゃべらせないという人もおれば、もう人の事を聞く一方で、自分の意見はほとんど述べない人もいるわけです。ところがしゃべったり人の話を聞いたりしないと会話にならない。そういう点では、人がしゃべっているときにはよく聞くし、自分が言わなきゃならん時にはよく言うというのが、普通の会話のあり方ということになるわけだと思います。

質問
つまりコミニケ-ションでありますが、その目的とするところは自他一緒になることですね。

先生
そういうことです。

質問
という事は、言葉を変えて言うならば、愛、愛情と言うことですか。

先生 
愛と言うと、話が非常に抽象的になるんでね、愛と言っていいかどうかね。それよりも、お互いの関係というか、そういうことだと思います。

質問
その場合、一体感という事は言えませんか。

先生
一体感って、そういう一つの言葉でとらえようとすると、現実的なお互いの関係と言うものが薄れてきてしまう。むしろ一体感と言わなくてもいいんじゃないか。

質問
協力ですか。つまり労使協調という・・・。  

先生
だからその辺の事情になると、言葉でどうこうという風に表現できない問題があるんですね、現実の人間と人間との間柄と言うようなものにしても。世間の論議というのは、たいてい言葉で割り切ろうとするからね。そうすると、愛だとか、慈愛だとか、友愛だとかそういう言葉が出てくるんだけれども、愛だとか、慈愛だとか、友愛という言葉が出てくると、わかった様で、現実がわからなくなってしまうと言う恐れがあるわけです。

質問
また別の言葉でいえば、運命共同体なんて言葉があるんですが、これはどうでしょうか。

先生
だからそういう点では、何か一つの言葉でまとめようとすると、生々しい現実がどこかへ行っちゃうという恐れはありますね。だから仏教の問答が、Aの人とBの人とがお互いに論議し合って、その二人の意見の絡み合いの中に真実があるという説き方をするのは、そうせざるを得ない事情があるわけなんですね、この現実の説明と言うものには、問答体の話が仏教にはよく出てくるというのは、そういう事情があるわけです。

質問
しかし、従来の説き方でいいとは限りませんね。どうも難しすぎるんですね。ですからこれを現代風に何とか相手にわからせようとする場合には、そんなふうな言葉もいろいろ出て来やしないかと思うんです。

先生
ところが、そういう一面的な説明は、新聞や雑誌を読めば非常に難しい説明が無数に出ているわけです。そういう説明が役に立つかというと、あまり役にたたないわけです。新聞を読み、雑誌を読む人というのは、役に立つと思って一所懸命読んでるわけですけどね。だけど現実の我々の生活の説明にはあまり役に立たない。そういう点では、問答体の説明の方が、どうしても現実をとらえやすい。問答体の説明でないと、現実をとらえにくい、取り逃がしてしまうと言う事情があるから、問答体の説明と言うものが仏教では昔からあるわけです。だからやっぱり一つの言葉でまとめて説明するということが、難しいということなんだと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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