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正法眼蔵 古鏡 14

南嶽懐譲禅師の教団において、ある僧が南嶽懐譲禅師に質問した。

僧問う
鏡(の素材である金属)を鋳直して像を造った場合、(鏡のぴかぴかとした)光はいったいどこに行ってしまうのですか。

禅師答えて言う
お前さんがまだ出家していなかった時分の姿・顔かたちというものは、出家して頭を丸めて以降は一体どこに行ってしまったのか。

僧問う
像を造った場合には、材料は同じ金属でありながら、なぜ鏡として光ること、物を映すということがないのでしょうか。

禅師答えて言う
確かに像を造った場合には、鏡として何も映す事はないけれども、像は像としての現実としてはっきりそこにあるのであり、人を騙し、それを見る者の眼をくらませるという事はまったくない。つまり、鏡の時は鏡の時、像に造られた時は像に造られた時で、いずれも絶対の現実としてそこにあるではないか。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は1日24時間のうち、坐禅をする時間はきわめて少ないですね。1年365日、仕事とかそういう一般的な事をやって、坐るという時間がどちらかというと、努力して勉強をするようなつもりで坐っているんですね。先生のお話を伺っていますと、いろいろ仕事をしていて、その息抜きに、あるいはくたびれ休めに坐禅をするような心境になるのが本当なんですか。

先生
いや、そうじゃないですね。

質問
やはり努力が肝心・・・・。

先生 
そうです。坐禅は自分で一日にどのくらい坐るという事を決めて、嫌だと思ってもやらなきゃだめです。やりたい時に、気が向いた時にやるというんでは絶対にできない。

質問 
いや、そういう事じゃなくて、継続して来ていつまでたってもやっぱり努力を必要としますか。

先生  
ただね、坐禅が好きになるという事はありますね。そうすると、やらないではいられないという事はあります。むしろ、やらないと落ち着かなくて落ち着かなくてしょうがないから、大急ぎで時間を見つけてやるという事はあります。

質問
喩えは悪いんですけど、坐禅をする時間は多少にかかわらず芝居でいうと楽屋で、一般社会の我々とすると舞台で役者が脚本にしたがって思ってもいないことをお芝居でやっているわけですね。そういう喩えは当たりませんか。

先生
その点では逆なんですね。たとえば坐禅を一日に1時間するとしますか、その場合に24時間のうちの1時間ですから24分の1というものは坐禅に使うわけですよ。私は若い頃、24時間のうちの1時間を坐禅に使うという事は、何かもったいないような気がしてならなかった時期があるんですよ。ただ坐禅をずうっと長くやってきまして、今日になって感じることは1時間を坐禅に使う事によって後の23時間が活きてくる、1時間坐禅をやるという事をやらないと24時間が全部無駄になると、こういう事情が人生にははっきりあると思います。

ですから私自身の体験からしても、坐禅で24時間のうちの1時間を取るようになってから時間を無駄にしなくなりました。それがないうちはなんとなく時間が過ぎて、何のために生きているんだかよくわからないという事が非常に長かったです。だからそういう点では、1時間を仕事以外のことで使うという事が、逆に残った23時間を非常に意味の大きいものにするけれども、その1時間の坐禅がないと24時間が全部だめになると、そういう事情がはっきりあると思います。

質問
先生の今のお話を逆に功利的に考えてみて、24時間のうちの23時間を有効にするために1時間を割いて坐禅をする、坐禅の意味はそこにあるんだという考え方はいけませんか。

先生
というよりも、1時間の坐禅をしたことによって23時間が否応なしに意味を持ってきてしまう。

先生
いえ、そういう表現ではなくて、23時間を生かすために1時間の坐禅をするという考え方で坐禅をしたんではいけませんか。

先生
うん、そういう意味に見ても間違いありません。それはどういう事かというと、一生を無駄に送らないために坐禅をするんです。だから坐禅をしない人生というものは無駄に過ごしてしまうんですよ。そういう点では、23時間を無駄にしないために坐禅をするんだといっても決して間違いではないと思います。

質問
しかし、先生が「間違いではない」というお言葉だと、本当は正しい考え方ではないわけですか。

先生
というよりは、好きだからやるというのが坐禅の本質ですよ。やりたいからやるというのが坐禅の本質です。だからその点では「23時間に意味を持たせるために坐禅をする」という事も間違いではないけれども、最高の考え方ではないという事も同時に言えるという事はあります。
                                      
質問
先生、坐禅はやっぱり1時間しなくちゃいけませんか。

先生
いや、その点では、最初は時間が長い、短いという事は問題としてそう重要視する必要はないです。だから最初のうちは5分でも10分でもいいですから、とにかく毎日やるという事が大事だと思います。その場合、朝というのは気が付いたらもうご飯を食べて仕事に行かなきゃならんという形で、朝は中々やりにくいとすれば、寝る前に5分でも10分でもやるというのが一番最初のやり方だと思います。

質問
私は今年の10月で2年になるんですが、寝る前に30分ぐらいの間坐禅をするというのが私の日課ですけれども、そこからちっとも延びないんですよね。

先生
いや、そういう形の生活をしているうちに、睡眠がよくとれるようになると、朝早く目が覚めるようになります。私も若い頃はとにかく朝、時間いっぱいまで寝ているという事ですから、なかなか朝やれるというところまでいかなかったわけです。ただ長いことやっているうちに、だんだん毎日やれるようになったし、朝晩やるようになったしという事ですからね。一生というのは一日や二日で終わるになるわけじゃないから、結局は非常に長期的な問題だし死ぬまでの問題だと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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