トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 古鏡 13

大鑑慧能禅師が大満弘忍禅師に差し上げた偈について、道元禅師の注釈は続きます。

我々の体や心というものも、何か実体があってそれに姿が映ると言うことではない。だから体や心に実体がないと言うことも大切な考え方である。よくよく考えて見る必要がある。そして我々の体や心そのものも、非常に優れた鏡であって、それが活躍しているときには、そのままそれについていけばいい、ついていくしかない。そういう点ではその場その場の様々の世界、様々の場面が展開していくのであるから、常に我々の置かれた環境、我々の体や心の状態というものは変わっていく。

宇宙の中には、体や心に映ったものでない何物もない。常に我々の置かれた環境、我々の体や心の状態は変わっていく。その様々に変わっていく状態はすべて我々の鏡に映った姿だと言うことができる。そういう点では、自分の体や心を通して、様々な、具体的な、実に複雑な外界の世界を捉えることができる。机があり、柱があり、時計がある。この宇宙の中には、体や心に映ったものでない物は何もない。また外界の事物というものは、体や心とは独立の存在であって、我々が主観的にどうこうという問題を離れて客観的に実体として存在するという性格も同時に持っている。

銘記せよ。我々の住んでいるこの世界というものは、単に個々の事物の存在ではなしに、鏡というものを通して全体的に捉えられたものである。したがって、この心を「古鏡」――「永遠の価値を持った鏡」と言うものにたとえて、その鏡に映ったものとして、宇宙の全体、尽界というもの、あるいは塵刹、つまり個々の物を映ししているのだと言う説明も成り立つ。

※西嶋先生解説
――ここのところでも、鏡というものを中心にして個々の外界の事物というものは体や心に映ったものであるが、それと同時に外界の事物というものは、鏡と独立に存在しておって、そういう外界の事物というものがなければ、鏡そのもの、体や心そのものが役をしない、という両方の意味を説かれておるとみて差し支えないと思うわけであります。――



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生はすごくラッキ-でいらして、初めから道元禅師にぶつかったという事ですか。

先生
これはね、バカだったからです(笑)。いや、これはもう私は決して、てらいでも何でもなしにそう言うことを非常に強く感じる。というのは、私はどうも人間がバカなところがあって、若い時からあまり名誉とか利得とかというものについての執着がなかった。だから、どれが本当かという事だけをバカっ正直に追っかけていったから、途中のところで満足できなかったんですよ。いろんな宗教の勉強に入っていっても、自分で納得がいかないと出てきちゃうわけです。だからあっちへ入って少しやってて「ああ、これはどうも納得いかん」というと、出て来ちゃった。

質問
じゃ過去に先生は、これに突き当たる前に何かあちらこちら試行錯誤された・・・・。

先生
それはもう色々とありました。ただ、道元禅師の思想の勉強を始めてから、「これはおかしい」という事で離れたいという気持ちが一回も起きなかったという事ですよ。だから道元禅師の思想が今日、価値があるという風に私は見ているわけです。

質問
お釈迦様は「嘘も方便」と言ったという事が伝わってますけども、それもやむを得ませんか。

先生
「方便」という言葉が今日では嘘という意味を持っているわけですね。だけど本来の経典の意味は、様々な方法という意味でしかないわけです。そうすると説明の仕方によって、いろんな方法が使われたというのが本来の「方便」という言葉の意味であって、決してお釈迦さんが嘘を言ってもいいという事を言われたわけではないという事があると思います。だからその点では、人に説明する場合にはいろんな方法を使った方がいいという事をお釈迦さんは言われたと、このことは同時に言えるわけです。


いつも訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。



関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-