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正法眼蔵 古鏡 12

大鑑慧能禅師が大満弘忍禅師に差し上げた偈について、道元禅師が注釈されます。

この大鑑慧能禅師の言葉をよく勉強してみなければならない。大鑑慧能禅師に関しては、世間の人々は「永遠の価値を持った真実の人」と言っている。圜悟克勤禅師が言われるには「大鑑慧能禅師は永遠の価値を持った真実の体得者であって、その前に自分は頭をひれ伏して礼拝する」と。

銘記せよ。圜悟克勤禅師によって真実の体得者であると呼ばれた大鑑慧能禅師が、輝きを持った鏡――つまり人間の体や心というもの、あるいは主観・客観というものを説明するに当たって、「鏡そのものには本来何物もその持ち物というものはない、どうして塵や埃がつくはずがあろう」と言われた。

※西嶋先生解説
――この考え方は、我々が人生というものを考えていく場合に、よくよく考えてみると「なるほどなあ」と思う考え方であります。我々は普通、自分というものがあって、自分が一所懸命努力して生きていると考えている。確かにそういう面もありますが、それと同時に我々は自分で生まれようと思ってこの世の中に生まれてきたわけではないという事実もあるわけであります。気がついてみたら、この世の中に生きておった。生きておる以上は、しっかりやらないとろくな事がないから、一所懸命やっておるということでありますから、本来自分が生まれようとして生まれてきたものでないという事実も忘れてはならないのであります。

そのことは我々自身が、個人個人としての存在だけではなしに。、大きな宇宙の中の一部として生かされておるという事実もあるということであります。今日、よく宗教家の話を聞きますと、「我々は生かされておるんだ、生かされておるんだ」と耳が痛くなるほど「生かされておるんだ」と言う考え方が出てきて、ちょっと無責任の様な気もする。個人の責任というのを全部棚上げにしてしまって「我々は生かされておるんだ」と言うことをよく言う場合があります。

そういう面では、個人の責任と言うもの「俺が生きているんだ」という立場も大事だと同時に、また反面、自分が好きで、自分の意志で生まれてきたわけではないと言うことになると、気がついてみたら、宇宙という大きな世界の中にすでに生きておったんだという事情でもあるわけであります。そうするとその点では、先ほど述べた主観と客観との絡み合いが人間だということにもならざるを得ない。そういう立場からすると、我々というもの、自分の持ち物だと思っているものも、、全部宇宙の物。そういう点では、自分の持ち物というのは何一つないということもあり得るわけであります。――


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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