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正法眼蔵 古鏡 11

大鑑慧能禅師は摩訶伽葉尊者から数えて第三十三代目の教団指導者である。かつて黄梅山において第五祖大満弘忍禅師の弟子として仏道修行をしておられたとき、大満弘忍禅師に差し上げた偈に言う

仏道修行で求めている真実というものには本来、客観的な何かというものがあるわけではない。その真実をとらえるところの鏡というものも、客観的に台があってそこに何かが映るという形のものでもない。本来の我々のあり方というものを考えてみると、我々自身の所有物というものは、何一つとしてない。したがって我々の実体というものは、本来、塵や埃というものがつくはずのものではなく、その塵を払ったり埃を払ったりという努力をする必要がない。

※西嶋先生解説
――この偈(詩)がなぜこういう形で書かれたかというと、大満弘忍禅師の教団には神秀上座と言う人がおられた。この神秀上座と言う方は秀才で大満弘忍禅師の教団においては、誰も及ぶ者のない出来のいい人であった。大満弘忍禅師の法は神秀上座が継ぐであろうと教団の人はみな信じていた。ある時、大満弘忍禅師が弟子たちに「それぞれ自分の今までの仏道修行でとらえた実体というものを偈に書いて壁にはるように」という指示を与えた。そのとき神秀上座は「「われわれが生きている場合に、迷いや妨げがいろいろと生まれてくる。だからそれを一生懸命に払っている。これが仏道修行で求めている真実というものだ」という偈を作ったけれども、大鑑慧能禅師に言わせると、我々は本来、塵や垢などのない存在だと、だから、塵や垢などつくはずがないんだという意味の偈(詩)をつくって壁に掲げた。

この偈を大満弘忍禅師が読まれて、大鑑慧能禅師の仏道に関する理解が神秀上座よりもはるかに優れていると認められたので、大満弘忍禅師の法を大鑑慧能禅師に伝えられた。しかも自分の持っておられた袈裟と食器を夜中にこっそり大鑑慧能禅師に渡されて、他の弟子から恨まれて迫害を受けないようにということで、こっそり寺から逃がしたという話が伝わっているわけであります

大鑑慧能禅師が壁に書かれた「偈」が、仏教思想というものを表している一つの貴重な考え方であります。普通、宗教となると、我々は汚れている、だからその汚れを取り払ってきれいにするんだ、というのが普通の宗教的な考え方であります。ところが仏教では、我々は本来きれいなんだ、それが、たまたまいろんな影響でおかしくなっているかもしれないけれども、本来の自分を取り戻せば、塵も埃もつくはずがないんだ、これが仏教的の基本的な考え方であります。

我々が坐禅をするのはなぜかというと、坐禅をして本来の状態に戻ることに過ぎないわけであります。だから坐禅によって偉くなるんでなしに、坐禅によって本来の自分自身を取り戻すというのが、坐禅の本質的な意味。そこで「本来無一物、何レノ処ニカ塵埃有ント」という考え方が、仏教的な考え方の基本と言うことになるわけであります。――


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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