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正法眼蔵 古鏡 10

伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者の問答について道元禅師の注釈は続きます。

心と眼とが同じようだと言われていることをさらに説明するならば、心は心としての本来の姿を現し、眼は眼としての本来の姿を現していることに他ならない。その点では、それぞれが実体を現しているという状態そのものが心であり眼である。心――ものを考える主体も、その本来の姿を現しているし、眼――すなわち物を見る主体も、その本来の姿を現しているという意味として受け取ることが出来る。心が心としての本来の姿を現しているとは一体どういうことかというと、それは中国の三祖の鑑智僧璨禅師や六祖の大鑑慧能禅師などがその例である。

眼が眼としての本来の姿を現しているとはどう言う事かというと、真実を見る眼は、眼そのものの本来の姿を示していることに他ならない。真実を見る眼というのは、特別に優れたものがあって、長年の修行を積めば具わるというものではなくて、眼が本来の機能を素直に果たしているということである。

いまここで伽耶舎多尊者、あるいは僧伽難提尊者が主張しておられるところの趣旨というものはこういうことである。これが、伽耶舎多尊者がその師匠である僧伽難提尊者に初めてお会いして、師匠として仕える事になった最初の様子である。この様な話の趣旨を取り上げて、大円鑑(偉大な円い鏡)と言うものが、仏経界の諸先輩の間においては、どういう形で現れているかと言う事を勉強してみる必要がある。その点では、この大円鑑も、先に述べた古鏡(永遠の価値を持った鏡)の同類に他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「心が心としての本来の姿を現しているとは一体どういうことかというと、それは中国の三祖の鑑智僧璨禅師や六祖の大鑑慧能禅師などがその例である」というのがよくわからないんですが・・・。

先生
鑑智僧璨禅師、大鑑慧能禅師の鑑という字は、この円鑑の鑑という字と同じ字なんです。だから仏教界の真実を得られた人の例として、三祖を出し六祖を出されたわけです。たまたまその名前の中に鑑(鏡)という字が入っているから、三祖と六祖を出されたわけです。だから三祖、六祖に限ったことはない。

質問
一般的に「正法眼蔵」は、誰でも出来るものだと思ってないようです。まず坐禅をするには足が要る。ところが「南無阿弥陀仏」というと誰でも出来るんですね。これが一番優しい誰でも入れる宗教だとそう考えがちじゃないかと思うんですが、その点をどういう風にお考えでしょうか。

先生
私の感じからいきますと、念仏の方が遥かに難しいですよ。それはどういう事かと言うとやる気が起きない。「南無阿弥陀仏」を唱えて救われると言う様な事はとうてい信じられない。だからその事を信じようとする事は、私にとっては絶対に不可能なんです。

質問
先生には不可能かもしれませんが、一般大衆にはその方がやさしいと思ってやしませんかね。

先生
いや、だからそう言う事の出来る方は、念仏で大いに救われるべきだと思います。ただ私の様にどうしても信じる事が出来ない人間も数が多いか少ないかは別としているわけです。私が坐禅をやっておるという事は、実際にやってみてとにかく落ち着くし、健康にもなると言うふうな事ですからね。とにかく坐禅で救われる、これは信じる事が出来るわけですよ。ただ「南無阿弥陀仏」と唱える事によって救われると言う考え方は、私にはどうしてもわからない。だから、もう入り口から断られてしまうんです。その事が信じ得れば、そりゃ念仏の宗派に入って行けるかもしれないけれども、どうしてもそう言う事が信じられない。

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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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