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正法眼蔵 古鏡 9

伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者の問答について道元禅師の注釈は続きます。

大円鑑には、内・外と言う言葉が使われているけれども、その内――心というものに重点を置いてみても、それには形があり姿がある。ものを考える主体もあればものを見る主体もある。そしてまた、心と眼とが同じようにものを見る、 同じ見方をすると言う実情も具わっている。その外――外界の世界に関連しても、形があり姿がある。その形・姿にも、ものを考える主体、ものを見る主体、心に相当するもの、眼に相当するものも同じように具わっているし、また心でも眼でも、同じような見方をし同じような考え方をすると言うことが実情としてある。

したがって、今、現にこの現実の世界に現れているところの外界の世界と我々自身も、それらが内という主観的な心の問題、精神の問題としても捉えることができるが、同じようにまったく客観的な外界のものとして捉えることもできる。われにあらず、たれあらず――自分自身と言ってみても、それが客観的な物質だというとらえ方もできないことはない。表現することのできない誰かということも言えるし、またその表現することのできない誰かだということだけで全部を説明しつくすことが出来るかというとそうもいかない。

この伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者とが出会った状況というものは、二人の真実を得た方々が出会ったということであり、伽耶舎多尊者も僧伽難提尊者も真実を得たそれぞれ独立の人として、お互いに同じ境地において出会ったと言う事ができる。相手の人も自分と境地が異ならないし、自分もまた相手の人と境地が異ならないと言う関係に他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
ちょっと難しくてよく分からなかったんですけれども「われにあらず、たれあらず」…、もう一度お話しいただけませんか。

先生
まず「われにあらず」という言葉を考えてみると、これは「自分ではない」「私ではない」、それは「主観ではない」「心ではない」という意味である。「主観ではない」「心ではない」ということになると、我々はすぐ裏返しとして、それは物質だと、だから水分であり、脂肪であり、たんぱく質であり、というふうなとらえ方が出来るわけですね。じゃ我々は水分だ、たんぱく質だ、脂肪だということだけで満足できるかというと、どうもそうもいかない。

そうすると今度は、そういう言葉では表現できない”何かだ”という言葉が出てくるわけだけれども、じゃ、その”何かだ”ということですべてが尽くし得るかというと、それも言葉の説明に他ならないじゃないか。そこでその後で「たれにあらず」という言葉が出てくる。だから「われにあらず」という言葉と「たれにあらず」という言葉を二つ並べているわけだけど、その説明としては「われにあらず」と、その次に「物にあらず」、それから、じゃ「物にあらず」ならば、言葉で表現できないものなのかという疑問が出てくると、「たれにあらず」、言葉で表現できない誰かだというふうなことも言いきれない。

そうすると、言葉ではどうもうまく表現できないけれども、〝何かなんだ”。それはどうしたらわかるかといえば、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-っとしてれば、すぐ出てくることだし、そういう形で整えなければ、頭の中でいくら苦心惨憺して考えても、あるいは言葉をいろいろと考えだして表現しようとしてみてもも、どうにもならない問題だということをここでは言っておられる。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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