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正法眼蔵 古鏡 8

伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者との問答について道元禅師の注釈は続きます。

伽耶舎多尊者は幼い頃から、何か自分の中に一つの基準というものがあって、自分自身がわからないことをその基準に尋ね、その基準に従って行動したということが具わっていたに過ぎない。その点では、生まれつき物事を判断する智慧が具わっていたと見る事ができる。この大円鑑(偉大な円い鏡)が、伽耶舎多尊者が生まれたと同時にこの世に現れたと見た方が正しいのか、あるいは伽耶舎多尊者という子供が、この大円鑑に付随して生まれてきたと見たらいいのか。つまり、伽耶舎多尊者と大円鑑どちらが主体かと言う見方もできるが、その他に二つのものが前後して生まれてきたという見方も成り立つ。


したがってここで大円鑑というもので表しているものとは何かといえば、、たくさんの真実を得た方々の持っている性質そのものに他ならない。この大円鑑が内も外も曇りがないといっている場合の内・外というものは、お互いに内と外と二つのものがあって、それが見合って内・外という表現をされているわけではない。外に対しての内ということではないし、内というものが基準になって生まれてきたところの外というものではない。その点では表と裏側というものがあるわけではなくて、裏も表も一つにしたところのものの見方というものがあるに他ならない。

そのことをまた別の言葉で次のように言う。心はものを考えるという能力が関係しているし、眼は感覚的に外界を受け入れるということが関係している。しかしながらその心と眼について、常に差別的に考えるべきではない。心と言ってみても眼と言ってみても本質的にそう違うものではない。このことは僧伽難提尊者も伽耶舎多尊者も人であって、人と人とが出会ったということに他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
現在の日本の葬式は、本来の仏教からするとあまり関係ないものなんですか。

先生
ええ、私はそう思います。人間社会と言うのがありますと、死者が出た場合にかならず何らかの儀式をすると言うのは、何処の国にも共通してあるますよね。だから、それがたまたま日本の場合、仏教と結びついている訳であリます。葬式が仏教と特に結びつくべきものだと言う事ではない。それと同時に死者が出た場合に、何らかの儀式をしなければならないと言う事。しなければ収まらないと言うのも事実ですよね。
 
質問
法名とか戒名とかと言う、あれはどういう意味があるのでしょうか。

先生
私は、打ち割った正直なことをいえば、あれはやっぱりお寺さんの営業政策だと思いますね。つまり戒名をつける事による労働力はきわめてわずかなんです。そうして、報酬はめっぽう高いんですよ。紙切れにサラサラと字を何字か書くだけで、何十万と言う収入を得られる経済行為と言うのは非常に少ないと思いますよ、こういう時代にあって。まあそう言う事を別にして、徳川時代からあった事ですから、もっとそれ以前からあった事なんでしょうから、非常に長い歴史の中で培われて来た事ではあると思うんですよね。

だけれども、宗教としての仏教とどれだけの関係があるかと言うと、あんまり関係ないと言うふうに見ていいんだと思います。ただ、人が亡くなった時に「迷ってもらっちゃ困る、なるべくいいところへ行って貰いたい」と思ってる矢先、お寺さんに「このくらいの名前をつけなきゃ駄目だよ」と言われれば、やっぱり「いや、お金が惜しいからやめときます」と言うわけにはいかんと言う人情はありますよね。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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