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正法眼蔵 古鏡 7

伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者の問答について道元禅師の注釈は続きます。   

仏道を学ぶ人々が知っておかなければならないことは、仏道において智慧は確かに説くけれども、智慧だけが仏道の全てではない。真実を得られた方々がいづれも持っていた大円鑑(偉大な円い鏡)というものは、確かに我々が生まれた時からこの大円鑑をも持っているということが一つの経験として否定できないところではあるけれども、さらにその上に論じておかなければならない問題がある。この大円鑑は現在の人生の中で、「あ、これだ!」とつかむことが出来るものではない。またこの人生だけでなしに、仮に他の生涯があったとしても、そこでも「これが大円鑑だ」と直接に接する事はできない。

それは貴重な石でつくられた鏡というわけではなく、銅でつくられた鏡というわけではない。また人間の髄によってつくられた鏡と言うこともできない。この伽耶舎多尊者の例について考えて見た場合に、伽耶舎多尊者に円鑑が具わっていて、それが何かの言葉を語ったと理解した方がいいのか、伽耶舎多尊者という子供の人格が何かを語ったと理解した方がいいのか、伽耶舎多尊者そのものの何らかの表現なのか、伽耶舎多尊者が持っていたと考えられる円鑑という名で呼ばれた何かが外に表れてきたのか、その辺を簡単に決めつけるわけにはいかない。

伽耶舎多尊者が僧伽難提尊者の言葉に対して、四句からなる偈(詩)で答えたけれども、伽耶舎多尊者がかつて他の人から四句の偈を学んだと言う事ではない。かつて経典を通して知ったわけではない。偉い僧侶から学んだというわけでもない。ただ伽耶舎多尊者は生来何らかのそういう動きというものを具えていたから円鑑にたとえることのできるような自分自身が持っている働きによって、このような四句なる偈を説くことが出来たのである。このことは単に伽耶舎多尊者だけではなしに、およそ人間として生まれたからには、誰でもが具えている能力という事も言える。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅を組むというのは、やっぱり、円鑑というものを見つめるというか、何か曇らせるような要因を取り除いて、そして見つめるということなんでしょうか。

先生
そういうことですよ。だから本来持ってるんだけど、自分で曇らせたり、色眼鏡をかけたりしてるから、色眼鏡を外したり、曇りをとったりする努力がどうしても必要だという考え方です。そういう点では、仏教の思想というのは、非常に単純な、難しい思想ではないんだけれども、それをはっきりつかもうとすると、なかなか骨が折れるという奇妙な性格がある。

ありのままというのはなかなか難しい。いろいろと演技することは人間はたいていできるわけだけど、演技なしに自分を出すということはなかなか難しい。そういう点では、仏教というのはやさしいようで難しいし、難しいようでやさしいという、奇妙な性格を持っているというふうに言ってもいいと思います。


読んでいただきありがとうございます。


   
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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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