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正法眼蔵 古鏡 5

伽耶舎多尊者の例を引いて「古鏡」について具体的な説明は続きます。

伽耶舎多尊者が僧侶となって、戒律をさずかって以降はこの円い鏡は見られなくなった。つまり僧侶になった事によって一切のものが具わってきた。そこで円い鏡という特別なものがなくてもすむようになった。このような様子を見て、近隣の人々も遠方の国の人々も同じように、非常に素晴らしい事だと賞賛を惜しまなかった。まさにこの娑婆世界(地球世界)においては、類まれなところではあるけれども、かのインドの国においては、この様な素質を持った人があるということも決して不思議なことではない。十分に深く考えてみる必要がある。

まさに銘記せよ。経典は単に文字が書いてあるという理解の仕方だけでなくて、草や木や石ころのようなものにも真実を教える実体というものが常に具わっている。そういう意味では、草も経典である、木も経典である、石も経典であるという考え方もできるし、また、田畑、農村、人里、都会と言うふうな地方であろうと中央であろうと、人の住んでいる所には常に真実のわかった人々がいる。このような草や木、あるいは石や瓦、あるいは田畑や人里というふうな具体的な我々の周囲に存在するところの様々な事物というものも、やはり伽耶舎多尊者が持っておられたと伝えられている「円い鏡」と同じものであろう。

現に我々が日常見ているところの経典もまた、伽耶舎多尊者が具えていたと考えられる真実そのものに他ならないと言う事が出来る。伽耶舎多尊者に関してこういう説話が伝わっているけれども、我々は決して伽耶舎多尊者が実に不思議な人で普通の人とは違うと考える必要はない。



                ―西嶋先生の話―

最近しきりに感じますことは、仏教という思想は非常にやさしい思想である、それと同時に非常に難しい思想であるということをしきりに感じます。なぜやさしくて難しいかというと、仏教のねらいは、我々の住んでいる世界をありのままに見るということ。ところがありのままに見るということが中々難しい。我々は我々の住んでいる世界というものをありのままに見ることをしないで、何らかの解釈を交えてみようとする。だからその点では、この世の中がどうだこうだということを、頭で考えて理解しようとする傾向が強い。

ただ頭で考えた事というのは、我々が現実に生きておる世界とは別の世界を自分の頭でつくってしまう恐れがある。そのことが仏教というものが非常に難しくなってしまう原因というふうに考えられるわけであります。そのことはありのままに素直に、この現実の世界を眺めるということが簡単なようで実に難しい。なぜ難しいかというと、人間の解釈を交える。それからもう一つ、ありのままに見ることのできない他の大きな原因は、我々が持っている習慣。

我々は「オギャ」と生まれてから何十年かを過ごしているわけでありますが、その何十年かの間にいろいろな習慣がつく。その習慣が我々の住んでいる世界をありのままに見ることを邪魔するということがあるわけであります。その最初の考え方、解釈でありのままに見ることが出来ないという原因を仏教では「迷い」という、それからもう一つ、長年の習慣でありのままに物事が見れないということを「執着」という。

だから迷いと執着とが邪魔をするために、我々は自分の住んでいる世界をありのままに見ることが出来ない。そうすると仏教という思想は、迷いと執着を離れるということがねらい、ということになるわけであります。
                           つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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