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正法眼蔵 古鏡 6

伽耶舎多尊者が師匠の僧伽難提尊者に出会った時の問答です。

伽耶舎多尊者が外出したある時、僧伽難提尊者が歩いてくるのに出会った。伽耶舎多尊者は真っ直ぐ進んで僧伽難提尊者の前に立たれた。僧伽難提尊者言う。「お前が手に持っているものは、一体何を表わしておるのか」と。この「お前が手に持っているものは、一体何を表しておるのか」という言葉は、問いかけのように聞こえるけれども、これは質問ではなくて、一つの主張だと理解して学ぶべきである。「何」というのは、言葉で表現できないものを指す。「言葉で表現できない何かを、お前は常に示している」という肯定の言葉として理解すべきである。
 
そこで伽耶舎多尊者答える。「真実を得た沢山の人々がもっている大円鑑(偉大な円い鏡)というものは、大円鑑そのものとそれに映るものとがいずれも曇りなく、見る人と見られる人とが見るところも同じであり考えることもまた同じである」と。

伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者の問答について道元禅師の注釈です。    
このように考えてくると、真実を得られた方々が持っておられる大円鑑というものが、伽耶舎多尊者が生まれたと同時に生まれてきたと言うものではなくて、およそ人間である以上、誰にでも具わっているところの何らかの働きが大円鑑というものによって表されていると言う事がわかる。伽耶舎多尊者が子供のときから優れた素質を持っていたという事は、単に伽耶舎多尊者だけでなしに、およそ人間は誰でもに優れた素質を持っていると言う事も出来る。

真実を得られた方々は、いずれもこの円鑑と同じ境地に立ち、同じ見方をして生きると言う事が常にあるのであり、さまざまの真実を得られた方々は、いずれもこの大円鑑によってつくられたところの姿に他ならない。この大円鑑(偉大な円い鏡)というものは、智慧だけではない。理論だけではない。本質だけではない。姿・形だけではない。こういう個々の言葉では限定する事の出来ない非常に大きな内容を持ったものが大円鑑と言うことで表わされる実体に他ならない。

十聖とか三賢とかというような菩薩(仏になる以前の仏道修行をしている人々)の境地の中にも、大円鑑という言葉があるけれども、今ここで言っているところの真実を得られた方々に具わった大円鑑というものは、常に智慧だけに限定されているということではないから、菩薩の境涯における大円鏡と同じではない。真実を得られた方々には確かに智慧は具わっているが、智慧だけが真実を得られた方々のすべてというわけではない。



                  ―西嶋先生の話―
                              --つづき

仏教という思想は、迷いと執着を離れるということがねらい、ということになるわけであります。我々が坐禅をしているのは、何のためにするかというと、迷いを離れた状態、執着を離れた状態をわが身におくということが、坐禅のねらいということになるわけであります。したがって、坐禅によって我々が持っておる様々の迷いや執着を外すということが、坐禅のねらいということになるわけでありまして、道元禅師が「身心脱落」――体や心が抜け落ちるということを言われたことの意味も、我々が迷いとか執着とかを離れるということを意味しておられる、そういうふうに見て差し支えないと思うわけであります。

先日来「正法眼蔵」古鏡の巻をやっておるわけでありますが、この「古鏡」という巻もなかなか難しい巻。「古鏡」というのは何を意味するかというと、我々の心、あるいは我々の体というものを意味しておるわけであります。ただ単に言葉で体とか心とかと言うふうに割り切ると、この我々の実体というもののごく一部しかつかまえることが出来ない。そういうところから、我々の全体をつかむ一つのやり方として、我々自身を鏡にたとえて、その鏡というものを例にとりながら、我々の心、我々の体の実体というものを説明しておられるのが、この「古鏡」の巻の趣旨ということになるわけであります。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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ブログ名を「坐禅と暮らし」から 「正法眼蔵=坐禅」に変えました。

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