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正法眼蔵 古鏡 3

古鏡(永遠の価値を持った鏡)が人間には具わっているという考え方が、この「古鏡」の巻の基礎にあります。そこで摩訶迦葉尊者から数えて第十八番目の仏教教団の指導者であった伽耶舎多尊者の例を引いて「古鏡」について具体的な説明に入ります。

第十八代目に当たる伽耶舎多尊者は、インド西域のマダラ国の人であった。姓は鬱頭監と言い、父の名は天蓋、母の名は方聖であった。その母親が「一人の巨大な神が、大きな鏡を持って母親の方に向かって歩いてきた」という夢を見た。母親は、その夢を見た日から七日後、伽耶舎多尊者を産んだ。その伽耶舎多尊者は、生まれたばかりなのに肌が照り輝いて磨いた瑠璃の様であった。一度も入浴していないのに、生まれながらにして香ばしい匂いに満たされかつ清潔であった。そして、幼少の頃から落ち着いた静けさを好んだ。言葉遣いも普通の子供と違って優れていた。

そして生まれた当初から、一つの清く曇りのない円い鏡が一緒についていた。これは非常に珍しい事であった。そしてここで伽耶舎多尊者と同時に鏡も生まれてきたと言っているけれども、円い鏡が伽耶舎多尊者の身に具わっていたと言う意味は、円い鏡は母親の胎内から一緒に産まれたと言う事ではない。伽耶舎多尊者は母親の胎内から生まれてきたのであるけれども、伽耶舎多尊者が生まれると同時に円い鏡がどこからともなくやってきて、本来生まれながらに具わっているものの様に伽耶舎多尊者のそばに現れ、常日頃から使っている道具と同じような状態を示したのである。

円い鏡はその形からして世間一般のものとは異なっていた。伽耶舎多尊者がこちらに向かって歩いて来るのを見ると、両手で円い鏡を捧げ持っているように見えた。しかしその伽耶舎多尊者の童顔が鏡によって隠れると言う事はなかった。幼少期の伽耶舎多尊者が向こうに行く時には、丸い鏡を背負って歩いていくように見えたけれども、しかしながら、伽耶舎多尊者の子供としての姿が見えてなくなるということではなかった。



                 ―西嶋先生の話―
                              --つづき

早い話が我々の商売一つをとってみても主観と客観との絡み合いということが言えるわけであります。―中略―
そういう点では商売一つをとってみても、主観と客観との絡み合いでどの辺に線を引くかということが大きな問題ということになるわけであります。ところが今日一般に行われている考え方というのは、主観だけで「これが正しい」「これがいいんだ」という主張をしている場合と、それから「何でもかんでも周囲の意見、周囲の事情だけについていくのが正しい」という考え方と、その二つの極端な理論が新聞、雑誌をにぎわしておるから、どちらの考え方を信じ込んで一所懸命にやってみても、現実の問題が中々うまくいかないという事情があるのではないかという気がするわけであります。

先日来やっております、この「古鏡」という巻も、突き詰めてみると、この主観と客観との絡み合いを論じておるんだという見方が出来るわけであります。そういう点では主観的な面を持っておる。しかしながら同時に、鏡の前に何か物が出てこないと、鏡に姿が映らないということがある。そうすると、鏡というのは、単に主観的なものではなくて、同時に客観的なものがないと、鏡としての役をしないという問題もあるわけであります。だからこの「古鏡」の巻というのは、鏡というものを材料にして主観と客観との関係を様々の角度から論じた巻だという風にも言えるわけであります。


読んでいただきありがとうございます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
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師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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