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正法眼蔵 古鏡 1

「古鏡」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

この「古鏡」の巻も大変難しい巻。「古鏡」とはどういうことを言っているかというと、古い鏡ということで、古というのは永遠という意味を持っている。「古今」という言葉があると同時に、今と昔ということを含めて、永遠という意味を表わすときに、古という字を使う。だから古仏という言葉もあると同時に「古鏡」とは「永遠の意味を持った鏡」ということになる。この「永遠の意味を持った鏡」とは、どういうことかというと、我々自身と言う事も言っているわけ。

我々は自分自身の中に心というものがあり、その心が色々なものを考えたり、いろんなものを見たりするというふうに常識的には理解している。ただ心というものが単にものを考えたり、ものを見たりというだけではなしに、それ以上の様々な働きがある。そうすると、そのものを「心」という言葉でレッテルをはって、簡単に片付ける事が出来るかどうかと言う問題が出てくる。我々がふだん心、心と言っているものが、もっと範囲の広い、もっと大きな働きをするものではなかろうかという考え方も出てくる。

その非常に大きな働きをする、言葉では表現できない何かを「古鏡」という言葉で表現した。この「古鏡」の巻というのは、そういう人間の中に内在しているところの、レッテルでは表現する事の出来ない何かを説いておられる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道では、犠牲という事はどう考えているんですか。

先生
犠牲と言う事は、仏道ではあまり好まない。自分をなくす、自分を無理すると言う事はあまり現実にはないという考え方が強いです。世の中と言うのはそういう形に出来ていない。自分を減却して人のために生きると言う事が、現実の生活の中で果たしてあるかどうかという考え方が仏教の中にあります。

だから、自分のために一所懸命やっているようでも、人のためになっている事もあるし、人のために一所懸命になって、自分の事は全然顧みていない様でも、長い目で見ると自分のためになっていると言うのが現実のあり方であるというが仏教のとらえ方です。犠牲というのは、自分と他人を二つに分けて、自分を「零」にして、相手を「百」にするという考え方があります。しかし、そんな考え方があるかどうかという疑問は、仏教の思想の中にはありますね。

質問
いかにすれば、仏祖の心と私の心が一緒になれるのでしょうか。やはりそれは坐禅とか、そういったものによってのみ・・・。

先生
そう。それはあせって努力しても到底できることではない。だから、釈尊の体の格好と同じ格好をする事が最大の決め手だと言う事が仏道の信仰です。坐禅をなぜするかといえば、足の格好・手の格好・体の背骨の格好も全部、釈尊と同じ格好にする。そうすると否でも応でも、釈尊と同じ気持ちになるとそういう考え方です。


読んでいただきありがとうございます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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