正法眼蔵 心不可得(後) 23
「正法眼蔵」 > 19・心不可得(後) - 2016年06月12日 (日)
「心不可得」について道元禅師が注釈されます。
またある時、大証国師に僧問う「過去の真実を体得された先輩方がもっておられた心というのは、一体どういうものでしょうか」と。大証国師言う「垣根であり、壁であり、瓦であり、小石である」と。この問答も「心というものはとらえることが出来ないもの」と言う事を、問答の形で説かれたものに他ならない。
またある時、別の僧大証国師に問う「真実を得られた先輩方の普段の気持ちというのは一体どんなものなのでしょうか」と。大証国師言う「今お前は一所懸命に私の弟子として、わしの寺で仏道修行をしておるではないか。過去の先輩方もお前と同じように毎日一所懸命やっていただけだよ」と。この問答もまた「心というものはとらえることが出来ないもの」と言う事を、問答の形で説かれたものに他ならない。
またある時、大証国師に帝釈天問う「何らかの為にする行動というものから、どうしたら離れる事が出来るでしょうか」と。大証国師言う「何が真実かと言う事を頭において一所懸命やりさえすれば、為にする行動というものを離れることが出来る」と。そこでさらに重ねて帝釈天問う「ではその真実というのは、一体どういうものでございましょうか」と。大証国師言う「日常生活の瞬間瞬間で一所懸命に明け暮れしている心というものが、真実そのものだ」と。帝釈天問う「ではその日常生活の瞬間瞬間の心とは、一体どういうものですか」と。すぐ目の前を指差して大証国師言う「人間の周囲どこを見回して見ても、近くも遠くも、すべてが真実そのものだ」と。これを聞いて帝釈天は大証国師を礼拝した。
一般的に言って、釈尊の説かれた教えの中においては、体の問題を論じ、心の問題を論ずることは、真実を得られた方々のおられる寺院や教団においての例が多い。そして体の問題、心の問題を学ぶに当たって、凡夫とか悟った偉い人というふうな区別を立てて、その心の中身や外界のものをどう受け入れるかという心の動きだけを基準にするのではない。その問題になっている心不可得( 心というものはとらえることが出来ないもの)という大原則を十分に学ぶ必要がある。
「正法眼蔵心不可得」
1241年 夏安居の日
興聖宝林寺の内でこの巻を書写した。
※西嶋先生解説
ここで書かれていることは、我々は普通、心というものは誰でもつかまえることが出来ると思っている。つかまえることが出来ると思っている証拠には「心」という言葉がある。また我々は「心」という言葉があるから、つかまえることが出来るか出来ないかという問題について、考えたことさえない。心というものはもう誰でもわかっているものとしていろいろな論議をする。そういう根本の問題に触れないで、その上っ面にある表面だけの問題として、いろいろな問題を考えるとどんな考え方もできる。本屋さんに行くと、ほとんど無限と言っていいほどの本が並んである。あれはみんな人間が考えたこと、だから人間というのはいろんなことをたくさん考えられるわけだ。
ただ我々が人生問題を考えていく上においては、心というものがつかまえることが出来るのか出来ないのかということは、やっぱり十分考えておく必要がある。初めからもう心というものはわかるものだと考えて、いろいろと本を書かれても根本問題に触れていないと、読んだ人も本を読むことが迷いの種になる。ますます迷いを詰め込んでいくという結果になる恐れがある。その点ではこの「心不可得」の巻というのも、仏教哲学の一番基本の問題に触れた、興味のある巻ということになろうかと思うわけであります。
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またある時、大証国師に僧問う「過去の真実を体得された先輩方がもっておられた心というのは、一体どういうものでしょうか」と。大証国師言う「垣根であり、壁であり、瓦であり、小石である」と。この問答も「心というものはとらえることが出来ないもの」と言う事を、問答の形で説かれたものに他ならない。
またある時、別の僧大証国師に問う「真実を得られた先輩方の普段の気持ちというのは一体どんなものなのでしょうか」と。大証国師言う「今お前は一所懸命に私の弟子として、わしの寺で仏道修行をしておるではないか。過去の先輩方もお前と同じように毎日一所懸命やっていただけだよ」と。この問答もまた「心というものはとらえることが出来ないもの」と言う事を、問答の形で説かれたものに他ならない。
またある時、大証国師に帝釈天問う「何らかの為にする行動というものから、どうしたら離れる事が出来るでしょうか」と。大証国師言う「何が真実かと言う事を頭において一所懸命やりさえすれば、為にする行動というものを離れることが出来る」と。そこでさらに重ねて帝釈天問う「ではその真実というのは、一体どういうものでございましょうか」と。大証国師言う「日常生活の瞬間瞬間で一所懸命に明け暮れしている心というものが、真実そのものだ」と。帝釈天問う「ではその日常生活の瞬間瞬間の心とは、一体どういうものですか」と。すぐ目の前を指差して大証国師言う「人間の周囲どこを見回して見ても、近くも遠くも、すべてが真実そのものだ」と。これを聞いて帝釈天は大証国師を礼拝した。
一般的に言って、釈尊の説かれた教えの中においては、体の問題を論じ、心の問題を論ずることは、真実を得られた方々のおられる寺院や教団においての例が多い。そして体の問題、心の問題を学ぶに当たって、凡夫とか悟った偉い人というふうな区別を立てて、その心の中身や外界のものをどう受け入れるかという心の動きだけを基準にするのではない。その問題になっている心不可得( 心というものはとらえることが出来ないもの)という大原則を十分に学ぶ必要がある。
「正法眼蔵心不可得」
1241年 夏安居の日
興聖宝林寺の内でこの巻を書写した。
※西嶋先生解説
ここで書かれていることは、我々は普通、心というものは誰でもつかまえることが出来ると思っている。つかまえることが出来ると思っている証拠には「心」という言葉がある。また我々は「心」という言葉があるから、つかまえることが出来るか出来ないかという問題について、考えたことさえない。心というものはもう誰でもわかっているものとしていろいろな論議をする。そういう根本の問題に触れないで、その上っ面にある表面だけの問題として、いろいろな問題を考えるとどんな考え方もできる。本屋さんに行くと、ほとんど無限と言っていいほどの本が並んである。あれはみんな人間が考えたこと、だから人間というのはいろんなことをたくさん考えられるわけだ。
ただ我々が人生問題を考えていく上においては、心というものがつかまえることが出来るのか出来ないのかということは、やっぱり十分考えておく必要がある。初めからもう心というものはわかるものだと考えて、いろいろと本を書かれても根本問題に触れていないと、読んだ人も本を読むことが迷いの種になる。ますます迷いを詰め込んでいくという結果になる恐れがある。その点ではこの「心不可得」の巻というのも、仏教哲学の一番基本の問題に触れた、興味のある巻ということになろうかと思うわけであります。
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